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大桑神社

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  祭  神:稚産霊神   
  説  明:境内案内板によりますと、
      「火の神軻遇突智と土の神埴山姫とにより誕生の稚産霊の神は頭の上
       に蚕と桑が生じ臍の中には五穀が生えて農蚕業の神として尊崇さる。
       時元明天皇の和銅年代に現在の大水川原に創建。文明十一年と享保
       八年の大洪水のため社殿流失し、延享二年現在の地に再建す。
       天富命の命を受けた阿波の斉部なる者、この地を通り大桑の木が茂
       りその部落の人の欲するまま蚕を与え養蚕の仕方を教え、稚産霊尊
       を祀り部落を大桑郷と名付く。中世の結城家時代には、不意の合戦
       に備える時の鐘あり。軍兵交替に社に篭り、『篭』と称され、養蚕
       盛んとなり『蚕守』に転訛し、現在の『小森』の称となる。
       結城七社の一つに数えられ、明治時代迄別当寺大桑山恵勝寺浄福院
       が在り、享保六年浄福院沙門元映誌に依る」
      「結城市指定文化財
       流造、銅板葺、三面を彫刻で荘厳化した本田は、千七百二十二年
      (享保七年)に建てられ、当初は桧皮葺で、数回の葺き替えの後、千
       八百四十八年(嘉永元年)に銅板葺になったことが、棟札により確
       認されています。
       彫刻は、東西二面が中国の故事(東・虎渓三笑、西・光子甕割)、
       北面は日本神話(天の岩戸)を題材にしています。また、棟札には
       建造にあたった小森村の彫物大工や番匠、この地方の棟梁の名等が
       記されています。
       大桑神社の成立については、古代、東国に養蚕・織物を伝えたとさ
       れる阿波斎部(あわいんべ)が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神
       として、北方の大水河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けた
       ことに始まり、その後、洪水により流失、千四百七十九年(文明十
       一年)今の地に移ったと伝わります。
       そして、南北朝時代には、結城家七代直朝が、関城攻略にお際し、
       戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。
       小森という地名は、阿波斎部の伝えた養蚕を守り、養蚕・織物が
       盛んであったことから、いつとはなしに、この辺りは『蚕守(こ
       もり)』と称され、中世結城氏の時代には合戦に備えてこの地に
       兵を篭らせたことから『篭(こもり)』と称されたことに由来す
       ると伝わります。
       また境内の欅群は、大きいものは、目通り直径1.7メートル、
       根まわり八メートルを超え、樹齢三百五十年以上と推定される、
       しないでも最大級の欅で、天然記念物に指定されています。」
       とあります。
  住  所:茨城県結城市小森1
  電話番号:
  ひとこと:阿波斎部という人物は古語拾遺に登場するようです。
      「古語拾遺」というのは、大同二年(西暦807年)に斎部広成に
       より編まれた、忌部氏の史書とも言えるものです。

       古語拾遺を見てみますと、阿波斎部が東へやってきたのは、神武
       天皇の時代となっています。

       引用しましょう。

      「天日鷲命の孫は、木綿・麻並びに織布を造ったが、その原料を求
       めるために天富命をして、日鷲命の孫を率いて、阿波国に遣わし、
       穀と麻とを播殖せしめられた。よって其の末孫が、今も阿波国に
       在住して、大嘗祭の行われる年には、木綿・麻・織布などの種々
       の特産物を進献するのである。
       その後、又更に天富命は、阿波在住の一部を率いて、関東地方に
       移住し、麻と穀との播殖に従事せしめた。此の地方を総国(ふさ
       のくに・上総・下総の二国)と称するのは、有料な麻の特産地で
       あるからである。
       又、穀(かぢ)の木の特産地であるから、結城郡といい、阿波の
       忌部の居住地であるから安房郡と名付けられたのである。」

       なるほど。これで、茨城に「阿波」という地名がある理由がわか
       りました。

       しかし、穀の木の特産地がなぜ、「結城(ゆうき)」になるのか?
       も少し説明が欲しいですね。

       ゆう=木綿(ゆう)
       き=木

       ということかしらん?
       穀の木って、木綿の木のこと?

       でも、結城って、絹で有名なのになぁ。
       古代は、木綿で有名だったのかもしれませんね。わかんないけど。

       天富命・阿波斎部(個人名ではなく、集団名みたいですけど)は、
       記紀にはでてこない神様です。
       旧事本紀には、天富命が橿原の都に正殿を作ったとありますが、
       麻と穀の栽培については全く記されていません。

       つまり、神武天皇以前の時代で、東の国について書いているのは、
       古語拾遺だけかも。

       一般的に、東の国は、「荒れている国」として登場します。

       第十代・崇神天皇の皇子である、豊城入彦命は東国へ、(筑波山
       神社によれば、武士(もののう)であるところの物部氏を引き連
       れて)やってきます。

       第十二代・景行天皇の皇子である、日本武尊は、父王から、「東
       夷を成敗せよ」と、東へやってきます。

       ところが、第一代・神武天皇の時代に、「産業を広めるために」
       東国入りしている人物がいたのですね。

      「敵として」じゃなく、「産業の普及者として」です。

       神武天皇の時代・・・神様の時代から人間の時代へ遷ったころ、
      (忌部氏によれば)東国と大和は決して不仲じゃなかった。
       なぜ、いつから、東国は、「荒れた国」とされてしまったのでし
       ょうね。

       いや、不仲だったのは、東国の誰と、大和の誰だったんでしょう?

       そんなことも考えてしまいます。

       が、せっかくなので、「桑」「蚕」についてもちょっとだけ。

       桑の木って、どういうイメージありますか?

       日本霊異記や、今昔物語には、桑の木に登っていた娘が蛇に無理や
       り交接されてしまう話がでてきます。

       一度目は、呪術師により、蛇の子(精子?)を出してもらい、助か
       のですが、二度目はとうとう亡くなってしまった、と。

       なぜ、桑の木なんでしょうか?

       蛇が「神」なのならば、桑の木は、神降り給う拠り所であり、娘は
       神がかりする巫女なのかも??

       と、この話を読んだ時思ったのですが、いかがでしょう?

       また、神(稚産霊命)から生まれた虫・蚕が桑の葉を好んで食べる
       のも、桑の木を神聖視させるのに十分なことかもしれませんね。 

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