祭 神:彦五瀬命 神日本磐余彦尊命 天児屋根命 熊野速玉命 説 明:境内看板によりますと、男神社(おたけびの宮)について 「元府社・男(おの)神社は大阪府泉南市男里、即ち古への呼唹 郷(おのさと)の地である延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬 命、神日本磐余彦尊命を祀り、相殿には、天児屋根命、熊野速 玉命を祀る。 境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹鬱蒼として幽邃絶 塵の神域をなしている。その北方一キロ余の処に摂社浜宮があ る。 本社の元宮で境内九千平方メートル松樹茂って海風に鳴ってい る聖蹟雄水門(おのみなと)は、即ち此の地である。 神武天皇御盗東遷のみぎり、孔舎衛坂で長髄彦と激戦した。 此時、皇兄・彦五瀬命が賊の流矢に中って、肱脛に瘡を負はせ あれ、『吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故 れ賊奴が痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負 ひてこそ撃ちてめ』と仰せられた。 よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し、紀伊に向わせられよ として紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此の地に着き 給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重あせられた命は、剣の柄を 堅く握られ『酒哉大丈夫にして披傷於虜手、報いずして死なむ や』と雄詰(おたけび)給ふた。よって、此の地を雄水門とい ふ。 即ち、彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神 武天皇の御神霊を祀奉ったのが当社で、社伝によれば、貞観元 年三月、今の地に御遷座し奉ったという。毎年十月十一日の例 祭には本社より聖蹟雄水門の地に神輿渡御の儀が行われる。 明治七年七月畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。」 と説明されています。 住 所:大阪府泉南市男里3丁目16−1 電話番号:0724−83−2266 ひとこと:いや、別にいいんですけど、「賊の流矢」って、長髄彦の撃っ た矢のことですよね。 「賊」ってのはあんまりじゃありませんかねぇ。 勝てば官軍とは言いますが。長髄彦からすれば、自分の支配地 にいきなり東進してきた弱っちぃ軍隊があったら、責めますわ な。まさしく、「賊」ですがな。 だいたい、神武天皇は、長髄彦に惨敗してます。 しかもその後、長髄彦が天神と崇める饒速日命を利用して(?) 長髄彦を謀殺しています。 日本書紀では、神武天皇と饒速日命は、お互いに天神の末裔で あることを認め合いながらも、饒速日命は、神武天皇に従うこ とになっています。 そして、それを良く思わない長髄彦を饒速日命は、「この男は 荒くれた魂を持っているから、いけない」と殺すんです。 ほんまか〜〜〜???と言いたくなりますね。 なんか裏があるんちゃうか、とか、この記述は嘘なんちゃうか、 とか。饒速日命は騙されたんちゃうか?????とかね。 大体ですね。出雲の王様になった素盞鳴尊は、自分が船を作り たい為、とは言え、植樹の文化を広め、広めています。 諸国を制圧するんじゃなく、諸国に文化を広めてるんですね。 が、神武天皇はただただ、制圧していって、安定した地、大和 に最終的に治まったという王様ですからねぇ。 素盞鳴尊も神武天皇も天神の子供(素盞鳴尊は天神自身)です が、そりゃ、国民から慕われる王様がどちらか、は一目瞭然で しょう。 と、思いっきり神武天皇を否定しちゃってますが、神武天皇も 良い参謀に恵まれています。そういう意味では部下には愛され る大将だったのかも知れません。 長髄彦について見てみますと、彼は、大神神社を祭祀する一族 だったと言われています。大神神社のご神体=蛇(長様)と、 長髄彦という名前とが何か関連あるかどうか、はわかりません。 しかし、大神神社を祭祀したのであれば、記紀の表現を持って すれば、大物主命の子孫であるととれます。 古事記によれば、大物主は、素盞鳴尊の五代目ですからね。 そう考えると、長髄彦だって、「天神の末裔」と言うことがで きるはずです。「賊」はないですよねぇ。