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勢田橋龍宮秀郷社

setahashiryugu




  祭  神:大神霊龍王 藤原秀郷公
  説  明:大神霊龍王(おおみたまりゅうおう)は、「淡江(おうみ・
       びわこのこと)」とかけてるのでしょうか??豊玉姫のこと
       である、と説明されています。

       また、藤原秀郷公とは、別名「俵藤太」。百足退治で有名で
       す。
       
      「朱雀天皇の時代のこと。
       近江の国瀬田の唐橋に龍が横たわって、人々は橋を渡ること
       ができなかった。が、俵藤太は、恐れることなく、龍の背を
       踏みつけて橋を渡ってしまった。
       その夜、ひとりの若く美しい女性が藤太を訪ねてきて、
      『私は琵琶湖に住む龍神です。昼間橋に横たわっていたのは、
       私です。最近、三上山の百足に苦しめられ困っています。退
       治してはいただけませんか?』と。
       藤太は快諾し、三上山に臨むと、稲光と共に、2、3千本余
       りの足の全てに松明を掲げて、三上山を7巻き半するほどの
       大百足が現れ、藤太が射たことごとくの矢を、跳ね返してし
       まう・・・。
       藤太が、百足は人の唾を嫌うということを思い出し、矢尻に
       唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と祈念して射ると大百足に深
       く付き刺さり、ついには、退治された。」

       この時に龍王から褒美に授かった、尽きることのない俵から、
      「俵藤太」と呼ばれるようになり、また、同じく褒美に授かっ
       た大鐘は、三井寺に収められたんだそうです。

      「唐橋を制したものは、天下を制す」という言葉があるそうで、
       この瀬田川を挟んで、古くは、神功皇后と、押熊王が戦って
       います。
       その他にも、壬申の戦い(大友皇子対大海人皇子)、寿永の
       戦い(源氏対平氏)などなど、大きな戦が何度も起こってい
       るのです。
       
       もともと瀬田の唐橋自体を社と呼び、中央に特殊な橋杭があ
       ったんだそうです。それを龍神の御霊代としたのだそうです
       が、西暦1440年ごろ、橋の架け替え大修理の際、この社
       に遷されたのだそうです。
  住  所:滋賀県大津市瀬田2丁目1−9
  電話番号:0775−45−3054
  ひとこと:上記の百足退治の話は御伽草子の「俵藤太物語」前半部分で
       すが、実は、隠喩に富んだ、伝記なんだそうです。

       後半部分は、俵藤太の「平将門討伐」のストーリーとなって
       いまして、

      「関東八州のほとんどを手に入れた将門(三上山を七巻き半し
       た大百足)を、俵藤太が弓矢で討ち、田原郷(俵)と、鐘
      (報奨金)を授かった」

       これが、史実(?)なようです。       

       平将門と言えば、首塚にまつわる怪奇談などで有名ですが、
       非常に人気のある人物でも、あるようです。
       それは、当時の京の悪政に牙を剥き、反乱を起こした人物で
       あり、そして結局、革命が失敗したからでしょう。
       革命を起こした人物というのは、成功した場合、独裁者とし
       て、嫌われるようになっていくパターンが多いですからね。

       しかし、民衆には人気の将門も、「源平盛衰記」などでは、
       ぼろちょんに描かれています。

      「名高きつわもの俵藤太秀郷が、将門と心を合わせて朝廷を傾
       けようと、訪ねたところ、将門は結髪していない頭を露出し
       たまま、下着の白衣であわてて出てきて、いろいろもてなす
       ことを言うので、秀郷は、『この人の性質は軽率である。と
       うてい日本の主とはなれない』と鋭く見抜いて、将門を主人
       とすると偽って本国に帰り、遂には、これを討ち取った」
       なんて。

       また、平将門の怪奇譚は、不気味なものが多いのです。
       
      「獄門にかけられてさらされた首は、三ヶ月たっても色が変わ
       らず、目も閉じず、常に牙をかんで、
      『斬られしわが五体、何れの処にかあるらん。ここに来れ。首
       ついで、いま一軍せん』と夜毎に呼び続けた」とか、

      「将門には、藁人形でできた6人の影武者がいて、
      『本物の将門は食事の時こめかみが激しく動く』
      『朝日に照らされると、将門以外は影がない』
      『将門だけが寒い日に白い息を吐く』ことで、本物を見分けな
       ければならない」とか、

      「将門は全身鉄のように硬く矢も刀も受け付けないが、こめか
       みだけが生身である(これは、百足が、矢を受けつけなかっ
       たということと関連があるでしょう)」とか。

       実際の将門公がどのような人物なのかはわかりませんが、天
       慶の乱が起きたのは、西暦940年。千年以上昔の人の首塚
       を今も人々が恐れているということは、影響力のとても強い
       人物だと言えるのではないでしょうか?英雄の俵藤太よりも
       有名なんですから。

       さて、しかし、この百足退治の話は、何か人の心を魅惑する
       のでしょう。小泉八雲は、「影」の中で、「鮫人の感謝」と
       いうお話を紹介しています(この主人公は、俵屋藤太郎。ス
       トーリーも似て非なるものですが)。

       また、上方落語「矢橋船」の中でも、

      「昔、俵藤太秀郷という豪傑があの山のムカデを退治した」
      「ムカデぐらい、わたしかてつぶしまっせ」
      「そんなムカデとちゃう、俵藤太が退治したというムカデはあ
       の山を七巻半まいてたというなぁ」
      「七巻半?!」
      「ちょっと聞くと大きいようなけれども、七巻半というのは、
       八巻(鉢巻き)よりちょっと短いねん」
       なんて、引用されたりしています。

       そんないろんな物語を、知ってこの神社にくると、その佇ま
       いの静さにびっくりするかも知れません。川の流れに、沈黙
       しているような、穏やかな社です。

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