祭 神:誉田別尊(応神天皇)足仲彦尊(仲哀天皇)息長足姫尊(神功皇后) 説 明:栞によりますと、 「神功皇后が外征後、御帰朝の際、筑紫を発し、紀伊の衣奈浦(日 高郡由良町)を経て大和の都に御還幸の途次、輦をこの地に駐め 滞留なさせ給いし旧跡にして、欽明天皇の詔により貞観元年(西 暦859年)に八幡宮が勧請された。のちにこの地が石清水八幡 宮の社領となり、当神社を『隅田の別宮』と称した。 長治二年(西暦1105年)隅田荘内の豪族で隅田党(隅田一族) の祖・長(のちの藤原・隅田)忠延がト兎神社の社務を司る俗別 当職(ぞくべっとうしき)となり、次いで隅田荘の荘官である公 文職(くもんじき)にも任じられた。その後代々両職に任じられ、 鎌倉時代以降は隅田党の氏神として社頭堂塔も備わり、祭式を厳 かにして栄えた。 永禄三年(西暦1560年)松永弾正久秀の攻略によって社殿が 焼失、慶長年間に再建され、江戸時代になると隅田荘十六か村の 産土神として繁栄し、紀州藩主とク側氏が累代厚く崇敬した。 社殿は、文政二年(西暦1819年)焼失するが、同五年には再 建され、今も壮麗で往古を偲ぶことができる。 明治時代の神仏分離で当神社の神宮寺の大高能寺が分離され、大 正五年県社になる。」 とあります。 住 所:和歌山県橋本市隅田町垂井622 電話番号:0736−32−0188 ひとこと:神功皇后の紀州入りは、忍熊王との戦の最中のことです。 神功皇后は、誉田別命を、筑紫で産みます。 が、誉田別命にとっては異母兄にあたる、忍熊王とかご坂王はこ の母子を殺害せんと、播磨で待ち受けていたのです。 しかし、神の覚えめでたき神功皇后のこと、そこは察し良く、播 磨を避け、紀州から、都たる大和に入ろうとするわけです。 その途中、この隅田の地に留まったというわけでしょう。 日本書紀の記述では、太子(誉田別命)を抱いて紀州水門に泊っ たのは、忠臣・武内宿禰とされています。 神功皇后はその間、難波に向おうとして果せず、数柱の神々を、 摂津国各地に鎮り、やっと、紀州にて、息子と落ち合うのです。 確かに、紀ノ川沿いには、八幡宮や応神天皇をお祀りした神社が 点在しているようで、この川沿いに親子(神功皇后)が、逃げて きた事実はあったのかも知れませんね。