祭 神:劔主根之命 説 明:平成祭礼データによりますと、 「当社は、宇陀郡大宇陀町中宮奥の宮奥川の左岸、白石に鎮座の社で、「延喜式」 神名帳剣主神社にあてられている。「大和志」に、宮奥村に在り、石段有りて社 屋なし、土人伝えて故実となす、とあるが、俗に白石名神とも称し、本殿の周囲 に白色の硅石が数個ある。後方の山頂にも白石群があり、当社の奥の院といって いた。江戸の末期に本殿が造営されたが、それまで社殿なく、白石群を神体とし、 例祭などにはここで參籠したと伝え、今の社殿のある付近は、かっての遥拝所で あったというから古代日本の祭祀形態が、近世末まで残存していたことになる。 背後に宝林山瑞谷院という神宮寺があったと伝える。 祭神について「神社明細帳」や「宗教法人法による届出書」には「祭神不詳」と ある。伴信友の「神名帳考証」では、「新撰姓氏録」大和国神別の条に「葛木忌 寸、高御霊命五世孫剣根命の後也」とある剣根命を祭るとある。 例祭は9月9日で、5日に本年、明年、明後年に祭主を勤める当屋は、吉野郡河 原屋の大汝宮社前の吉野川で斎戒沐浴、川石1個を拾って帰り、清浄な竹、杉皮 でお仮屋を作って神前で使用した雲かわらけを御神体として納める。9日の祭典 に当る当屋は毎月1日、16日、28日の3回、吉野川から持帰った小石を宮奥 川上流に沈めて、その下流で禊する。当屋役が終わると、その小石を剣主神社の 背後山頂にある白石の磐座で通称白石さんの神前に供える例である。なお一説に、 大宇陀町下宮奥鎮座の天照大神を祭神とする神社と、同町半坂に鎮座の祈雨・止 雨神で、祭神素戔鳴命・経津主命・葺原醜男命とする同名の神社を、式内社とす る説もある。」 とあります。 住 所:奈良県宇陀郡大宇陀町宮奥116 電話番号: ひとこと:こぢんまりとした神社なのですが、境内に入ると、すがすがしい雰囲気に満ちて いました。 氏子さんたちがとても大切に祀られているのだ、と思います。 さて、ご祭神の劔主根之命は、日本書紀(神武天皇紀)に登場する神様です。 ただし、名前だけ。 「神武二年二月二日、天皇は論功行賞を行われた。道臣命は宅地を賜り、築坂邑に 居らしめられ特に目をかけられた。また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らし められた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれである。 椎根津彦を倭国造とした。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで猛田の県主と いう。これは宇陀の主水部の先祖である。弟磯城−名は黒速を磯城の県主とされ た。また剣根を葛城国造とした。また八咫烏も賞のうちにはいった。その子孫は 葛野主殿県主がこれである」 つまり、剣根命が、葛城国造に任命された、という一文があるのみ。 なんの功績により、その栄誉を頂いたのか、については、全く欠落しています。 他の人物・・・道臣命・大来目・椎根津彦・弟猾・弟磯城・八咫烏・・・は、す べて、少なからぬ業績がありました。 しかし、剣根命には、それについて、全く言及されていないのです。 さて、それでは、それぞれの人物の出身地・・・というか、どこで神武天皇と出 会ったかを見てみましょう。 まず、道臣(日臣)命・大来目については、日本書紀に初出するのが、熊野での 山越えです。(この時、八咫烏が遣わされて先導役を果たしています) が、この時にこの二人の人物が仲間に加わった・・・という記述はないので、多 分、二人とも、神武天皇が高千穂を出発してきた時から従ってきた、と考えるの が自然かもしれません。 そして、椎根津彦は、速吸之門(豊予海峡)で、小船に乗って、先導役を申し出 た土着の神とされています。 豊予海峡とは、大分県と愛媛県の間にある海峡ですから、旅のかなり初期に出会 ったと言えるでしょう。 弟猾は宇陀の・弟磯城は磯城の、かしらであったとされています。 この両者は、兄を裏切り、神武天皇に従った人物ですね。 宇陀も磯城も、この「劔主神社」の近所になりますから、劔主根之命も、同じ時、 神武天皇とであったのではないか、と思います。 しかし、そのことが、日本書紀には記載されていない。 なぜでしょうか? 一つは、葛木御縣神社で、妄想したような内容が考えられるのですが、他には? ・・・いろいろ妄想できますね(^^ゞ 一つは、功績はあったけど、わざわざ記載するほど大事にはならなかった。 例えば、神武天皇がやってきた時、すぐになんの抵抗もなく友好関係を結んだ。 そんなことも考えられます。 「遠いところからいらっしゃったようで、どこへ行かれるつもりかわかりませんが、 お通りください」 神武天皇だって、宮を築ける土地に辿り着ければよいのですから、途中の部族を すべて倒す必要もないわけです。 ただ、「通過」するだけならば、争いを避けるに越したことはないはず。 劔主根之命も同じ考えだったのかもしれません。 だから、 「通過するだけならどうぞ。一日くらいならば、接待もしましょう」 と、歓迎しないまでも、そこそこ親切にもてなしたのかもしれません。 なにしろ、この人物、「新撰姓氏録」大和国神別の条に「葛木忌寸、高御霊命五 世」と記載されているわけで、高御霊命の血族者ならば、神武天皇ともご縁が深 いわけですからね。 高御霊命は、神武天皇の東征にかなり助力していますから、その孫に、 「接待してやってくれ」 とお願いすることは、あり得ます。 そんな事情で、わざわざ何があったのか、記紀には記載されていないのかもしれ ません。 しかし、それだけでは面白くないですよね(^^ゞ 実は、神武天皇が開いた、橿原の宮ですが、古代・・・つまり、神武天皇の時代、 全くの田舎だったと言われています。 この時代、陸路を行くより、水路を行くほうが便利がいい。 つまり、奈良県で言えば、葛城山のあたりとか、三輪山のあたりに陣取るのが、 なにかと都合がよいわけです。 反対に、海から遠い場所というのは、「辺鄙な田舎」だった、と言うのです。 そして、もちろん、あまりにも、水際というのも、すぐに水がやってきますから、 決してよい場所ではありません。 奈良盆地は、海の底だったはずですからね。 そんな目で見てみると・・・、あら?あらあら? 橿原宮のあたりって、かなり水浸しで、何もできない土地だったんじゃあ? 天神の子孫で、力のある人物がなんでまたこんなとこに都を開いたのかしらん? 答えはですね。 「いじめ」 九州から東へとやってきた神武天皇。 よさそうな場所を見つけたはいいけども、なにしろ、「よい場所」。 先住の民族がわ〜んさか。 「僕もまぜっこしてくださいよぉ」 と、猾兄弟にお願いすると、この当時まだ末子相続だったため、弟猾が対応、 「ここには土地がないから、磯城兄弟に聞いてみなさい」 仕方なく、磯城兄弟のところへ行き、 「僕にも土地くださいませんかぁ?」 やはり、首長の弟磯城が対応に出てきて、 「うちにも土地はないよ、剣根の君に頼んでみたら?」 たらいまわしにされてしまいます。ぐっすん。 仕方なく、剣根の君のところへやってきて、 「猾兄弟も、磯城兄弟も相手にしてくれないんです。もう、剣根の君にお願いする しかないんです、土地を分けてください!なんでもしますから」 とお願いすると、優しい剣根の君は、 「良民の土地を搾取して差し上げるわけには参らんが、橿原の土地ならば、誰も住 む者がおらず、空いている。あそこでよかったら差し上げよう」 と、土地を分けてくださったのでした。 なんて親切な剣根の君、なんてお優しい剣根の君!! それに引き換え、猾も、磯城もなんて冷たいんだっ!! 神武天皇は深く深く根に持ったのでした。 その恨みは、子孫代々伝えられ・・・。 記紀編纂の時、 「本当は泣いて土地を譲ってもらったんだけど、それじゃ格好がつかないから、戦 って、勝ち取ったことにしよう。 猾と磯城は薄情者だから、コテンパンにやっつけたことにしてやる。ひっひっひ。 ・・・しかし、それじゃあ、その土地に猾や磯城の子孫が住んでることの説明が つかないから、兄は歯向かって無様な最期を遂げたが、弟は兄を裏切って恭順し たことにしとこう。ひひひひひ、ザマ〜ミロ。 でも、優しくて親切な剣根の君には、そんなことできないから、戦いはしなかっ たけど、土地だけは与えたってことにしとこうっと。へっへっへ」 ・・・と、まぁ、そんな理由で、こんな辻褄の合わない記述になったのでした。 ・・・ありそ〜〜〜(~_~)