祭 神:天稚彦命 説 明:案内板を転載します。 「御創立の年代は不詳なるも、第九代開化天皇の皇子・彦坐王四世の孫白髪王の裔が此の地に移住 して、其の祀りしならんと近江愛知郡志に記し、三代実録貞観十三年の條に『壬辰授近江国正六 位天若御子神従五位下』とある古社なりと伝えられ、又鎌倉期、近江守護職佐々木氏幕下の安孫 子氏当地に居住し、代々篤く尊崇し、就中日向守勝氏武運長久を祈願し、神饌田を奉納すと伝え ている。織田氏の兵火に罹り、各地離散するも、敦賀に逃れし安孫子氏の末裔・治郎庀衛門氏は 明治末期当社に参拝し、以後年々玉串料を奉納され、昭和十二年其の一族の永厳寺住職安孫子孝 堂氏は、石造大灯篭一対を奉献され、先祖よりの崇敬の誠をいたさる。 境内には本地垂迹信仰の対象である鎌倉時代の傑作を伝える十一面選手観音像を祀る。 社蔵金口の銘に愛知郡南安孫子村雨若大明神元禄三庚午年三月長村作とあり、同六年八月彦根藩 検地帳奥書に当社の境内を古例により免除地とせしを記す。 社号は江戸時代天若大明神、明治初年天稚日子神社と称し、同九年村社に列し、同十二年安孫子 神社と改称。同十四年郷者に加列、同四十三年神饌幣帛料供進の神社に指定された。 昭和二十一年三月、神社庁所属神社となる」 住 所:滋賀県愛知郡秦荘町安孫子348 電話番号: ひとこと:湖東あたりの神社を周ると、「安孫子氏」が重要な氏族であったらしいと感じるのですが、鎌倉 時代の近江守護職に幕下であったようですね。 『新撰姓氏録』では、白髪王が阿比古姓を賜り、さらにその後、軽我孫(かるあびこ)姓となった とあるようですから、白髪王がその始祖なのでしょう。 このあたりには、「軽野神社」も数社鎮座するようで、「軽」は、「軽我孫」から来ているよう です。 しかしそれならなぜ、天稚彦命を祀っているのか。 このあたりにおいて、天稚彦とはどんな人物だったのか? 気になる~う。