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青玉神社

aotama




  祭  神:天戸間見命(別名 天目一箇命) 大歳御祖命(合祀)
  説  明:境内の案内板を転載します。
      「当社は播磨、丹波、但馬の境、三国岳に鍛冶業のご神徳をもって奉斎されて
       いた。
       やがて、南の山麓なるこの地に遷座せられ、土地を拓き、農を進め、加古川
       流域の農業の繁栄をもたらせた。
       かつては加美町北部の総氏神と崇められた。
       奇しく妙なるご加護は、家運隆昌、家内安全、農耕などの殖産興業の祖神と
       広く知れ亘り、近隣はもとより道行く遠近の人々は交通安全をはじめ、所願
       成就を祈る参詣者が多数あります。昔、狩人が身の安全を願う湯立の神事は、
       今も例年七月十五日前後に行い、多くの参拝者が忌湯を浴びて無病息災を祈
       願している。勧請年月日は不詳なるも、明応二年、安政三年の二度も火災に
       罹り、現今の社殿は万延元年の造営によるものです。」
       
      「『青玉さん』
       この神社の西北に聳える三国獄の山頂に、播磨踊場という広い平坦な所があ
       り、今も御手洗池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし、斎
       祠されていたという。
       青玉神社がこの地に創建された年代は定かではない。
       境内の六本の多すぎは樹齢七・八百年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)
       は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て、神社が建てられたのは
       相当昔のことである。
       『休み石』の謂われ
       その昔、井ノ岡(猪の岡)という狩人が(のちに稲岡代明神として祀られて
       いる)、三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと
       辿りつき、動けなくなった。
       この石に腰かけ、しばらく休んだ後、帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽く
       なった。急いで村に帰り、この事を村の人に話した。村の長老がそれはきっ
       と神様やと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。
       ここに神様を祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社
       として祀ったそうである。」
       
       拝殿にあった社史概要を転載します。
      「青玉神社 社史概要
       弥生時代、但馬の豪族天日鉾尊が、古代国造りの要衝……政治と鉱物資源開
       発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇
       神を祀り、行政の証とした。千八百年以前(垂仁三年)二世紀頃と推定され
       る。踊り場は、神々の『まほろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場
       に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。
       『御神霊』は奈良の都造営(七一〇年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主
       神(氏神)としてオオタマ=青玉の森に祀られた。南の庄の大歳の神(オオ
       トシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』(昭和四五年天然記念物指定)
       が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてこられた出雲
       の神様である』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙など
       の技術)は三国峠を越えておく播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』
       の全国的な元宮である。(室町時代、ご神体は他の各集落の神社に併神され
       た)。
      『瑞神門』は鎌倉様式で、一二五〇年代に建てられたと推定される(現礎石址)。
       加美区豊部集落の南旧道の地名『桜』に一の鳥居が建てられた。
       社格は九二七年(延長五年)に定められた延喜式社である(正一位青玉大明
       神)。
       神社は応仁の乱の初期、一四九四年(明応二年二月)、原因不明で焼失した。
       神社は再建され、戦国時代、江戸時代と繁栄し、たたら技術や紙の神・鍛冶
       の神様として多くの人々の信仰・参詣でにぎわった。
       一八五六(安政三年九月十七日)再び焼失した。尊王攘夷の騒がしい時代で
       あった。多くの氏子の莫大な浄財で再建されたのが、現在のお社である。お
       社は再建毎に拡張され、立派になった。天保年間の神社拡張時、神殿背後か
       ら出土した球壺二個(現当社の小宮に宝蔵)は、平安藤原期のものであり、
       神仏習合としては最古のものである。
       八五九〜八七七年(貞観年間)宮中で行われた『湯立神楽』が原型のまま残
       されているといわれる司祭の行事『湯立て祭り』は、中世以降現在に引き継
       がれ、毎年七月中旬、盛大に行われる。巫女が舞い、熊笹の葉で参拝者に湯
       をふり注ぐ。無病息災を願うこの信じは壮麗で、総てが神様と一体になれる
       時である。
       霊樹『乳の木』に婦人が甘酒をお供えして祈ると、乳の出が良くなるとの言
       い伝えがある。
              二〇〇七年吉日
              文責・奉納 青玉神社氏子 龍岳」
  住  所:兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽768
  電話番号:
  ひとこと:はっきりしているのは、この神社に祀られているのは、製鉄・鍛冶の神であ
       るということでしょう。
       
       そしてその神様が本来祀られていたのは、三国岳山頂にある「踊り場」と呼
       ばれる平地である、と。
       
       そしてそして、青玉様は、出雲からやってきた神である、とも。
       
       っていうか多分、古代このあたりは「出雲の一部」だったんじゃないでしょ
       うか。
       播磨の地主神である伊和大神と大国主(大己貴)の共通点などを考えても、
       伊勢の地主神である伊勢津彦が、風土記では出雲と縁深く語られていること
       などからも、古代出雲の広大さを考えずにはいられません。
       
       現在でも、社地はかなり広い。
       参道には樹齢のいった杉が立ち並んでいい雰囲気なんですよ、すごく。
       
       前に道の駅、横にキャンプ場があり、たくさんの人が賑わっていることもあ
       ってか、ひっきりなしに参拝者がありました。
       
       ……と言っても、ほとんどがキャンプに来た人たちのようでしたけどね。
      「あれ、あんなところに神社が。行ってみましょうか?」
       という感じでしょうか(^^ゞ
       
       しかし「青玉」という名が気にかかります。
       青い玉というと、鉄よりも銅を連想しません?
       私だけでしょうか?
       
       そしてもう一つ。
      「休み石」のお話に興味がそそられます。
       
       場所を移りたくなった神様が、氏子の一人にとりつき、意に適った場所まで
       きて、離れた。
       
       それ自体はわかる気がします。
       でも、その氏子というのが、狩人なんですね。
       
       今昔物語などでは、狩人は「動物を殺す人」です。
       つまり、ケガレを多く持つ職業として描かれているわけですね。
       多田満仲公も、息子たちにいさめられて狩りをやめています。
       
       反対に、化け物を退治するのも狩人の役割です。
       
       ある面では、「超人」。
       でもある意味、「非人」とも言えるかもしれません。
       そういう立ち位置である狩人が、青玉神をこの地へお連れし、神として祀ら
       れている。
       
       その名も、「井の岡」=「猪の岡」=「稲岡」。
       
       水であり、獣であり、稲でもある名前です。
       
       う〜む……なんかすごく深くないか(^^ゞ??
       
       青玉神とはどんな神なのか?
       考えこんでしまいませんか???
       

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