祭 神:鸕鷀草葺不合尊 彦火火出見尊 玉依比売命 神日本磐餘彦命 説 明:由緒書を引用します。 「知立神社は金星、池鯉鮒大明神と呼ばれ、熱田神宮・三嶋大社と並び東海道三社に数えられてい た。御祭神は、皇室の先祖神であります鸕鷀草葺不合尊を主祭神として、彦火火出見尊、玉依姫 命、神倭磐餘彦尊の四神をお祭りしております。創建については、第十二代景行天皇の御代、息 子日本武尊が東国平定のため、この地において皇祖の神々を祀り、戦勝を祈願され、その後数々 の危難を乗り越え、平定の大業を成し終えられた感謝の意を込めて、四柱の神を祀る社をお建て になられたと伝えております。国史上では、六国史の『日本文徳天皇実録』仁寿元(851)年の 記録に、『三河国知立、砥鹿両神階、並加従五位上』とあるのを初見として、以降歴代の朝廷に より神階を授けられてまいりました。 元寇の頃、亀山天皇弘長元(1261)年に、朝廷から正一位を奉授せられたと社伝にあり、実際に 『正一位智鯉鮒大明神 正安三(1301)年』なる扁額を所蔵いたしております。また、『延喜式神 名帳』には神祇官より幣帛を授かる式内社として記載がある他、中世においては国司の参拝に預 かる『三河国一の宮』とhして崇敬を受けました。 戦国時代にはしばしば兵火にかかり、一時は謹慎の重原村に遷座するなど、衰微の時期もありま したが、江戸時代に入ると、領主を始め諸大名の篤い崇敬を請け、歴代苅谷藩主からは社伝の造 営や催事への奉幣を受け、多くの大名も参勤交代の途次には当社神札を受けて行かれました。ま た、起因性には当社の『まむし除け』『長虫除け』の御神徳が霊験あらたかであるとの信仰が広 まり、東海道を行き交う旅人はもとより、関東から中国地方にわたり、広く御分社・御分霊が勧 請され、今日でも各地より知立講の代参がございます」 知立神社公式サイトの表記を転載します。 「式内社で三河国の二の宮、智(池)鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん)と称されている。創祀は社 伝によれば、第12代景行天皇の時、日本武尊が天皇の命を受けて東国平定の折、当地において皇 祖の神々に平定の成功を祈願し、無事その務を果たした故に、ここに建国の祖神彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよ りひめのみこと)、神日本磐餘彦尊(かむやまといわれひこのみこと)の四神を奉斎したのが始 まりと云う。また、仲哀天皇元年という説もある。 国史上においては、日本文徳天皇實録の仁寿元年(851)十月七日の条に「進參河国知立、砥鹿兩 神階 並加從五位上」とあるのがその初見である。これ以降、日本三代實録の貞観18年6月8日条 に「授參河国從四位下知立神、砥鹿神並從四位上」とあり、神階を授けられたことが知られる。 なお、当社蔵の正安3年(1301)の扁額には「正一位智鯉鮒大明神」とあり、社伝に「亀山天皇の 弘長元年(1261)2月20日正一位を授奉らる」とある。 文明3年(1471)3月に尾州緒川の城主水野直守が社殿の修造を行ない、大永6年(1526)11月に同水 野右衛門太夫忠政が修理を行ったが、天文16年(1547)戸田弾正宣光の兵火によって社殿は焼失し、 社地を重原村に遷座し、元亀2年(1571)の造営によって社地を現在地に再び遷座した。後、水野 信光によって本社を造立し、元和2年(1616)水野正清が修造を行ない、社領十石を寄進した。寛 文年中には松平主殿頭忠房により十石が追加寄進された。 朝野にわたって厚い崇敬をうけ、江戸時代は東海道の街道沿いに鎮座することも手伝って、東 海道三社の一つにも数えられ、参勤交代の途次諸大名は必ず神札を受けられたと伝える。また、 大垣藩主戸田氏は特に崇敬厚く例祭の折は代参を立てるほどであり、刈谷藩主は毎年3回参拝 奉幣をしたという。 明治元年9月明治天皇の東幸の際に勅使が差遣され奉幣が行われ、同2年11月11日には皇后の代 拝参向が行われ、守札が献上された。 明治5年9月に県社に列せられ、同40年2月28日に神饌幣帛料供進社に指定された。昭和50年12月 別表神社に加列。 大正8年(1919)、春日神社を合祀。」 住 所:愛知県知立市西町神田12 電話番号: ひとこと:池鯉鮒という字面が気になります。 池の鯉や鮒とは。 知立市にサイトには、 「ちりふの町の右の方に長き池(御手洗池)あり。神の池なり。鯉・鮒多し。依って、名とす。 しかれども、和名抄に碧海郡智立とあり」(吾嬬路より) とあり、御手洗池は殺生禁断だったため、鯉や鮒が多かったのが、この字の由来であると説明 しています。 さらにこの池の鯉が、長者の娘の身代わりとなり、片目となったという伝説もあるなど、どう にもこうにも鯉がクローズアップされているのが気になります。 この神社の神官は、代々永見氏が務めてきたようです。 愛知県側の伝承によれば、永見貞英と水野忠政の娘夫婦が、天文十七年(1548)に生んだお万 が、徳川家康の側室であり、秀康の母だとしています。 秀康は豊臣秀吉の養子となった、優秀な人物です。 しかし、知立神社の伝承では、秀康は双子であり、もう一人は永見貞愛だと言うのです。 貞愛はのちに知立神社の神官となります。 つまり、知立神社の神官には、お万のときに徳川家康の血が混じった、と。 上記知立市のサイトには、 「於万の方は、天文十七(一五四八)年(一説に天文十六年)、永見貞英と刈谷の水野忠政の女 との間に生まれた。於万の母の妹、つまり叔母に当たる於大は、松平広忠に嫁ぎ、天文十一 (一五四二)年に家康を生んでいる。」 とありまして、ここでもやはり、家康との関係を強調している。 やはり、愛知県において徳川家康は偉人なのだなぁとも思いますし、愛知県においてというよ りもっと、知立神社においてなのかもしれません。