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藤白神社

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  祭  神:饒速日命 熊野坐大神 熊野速玉男神 熊野夫須美神 天照大神 (配祀)事解男神
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「海南市を眼下に、遠く和歌の浦、紀淡の海をみはるかす万葉故地『藤白のみ坂』
       の入口に位置し、太古さながらの楠の大樹にいだかれた当社の由緒は古く、景
       行天皇ご念の鎮座にはじまる。
       その後、斎明天皇が牟褸の温湯(現在の白浜湯崎温泉)に行幸の御時、神祠を
       創建されたという。そのゆかりで境内社として有間皇子神社を祀る。
       聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を詣らせ、熊野三山に皇子誕生を
       祈らせたところ、高野皇女ご誕生、よって御母光明皇后は神域を広め、整え、
       熊野三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遥拝所と定められたこ
       とから、子授け・安産・子育ての守護神として崇められるようになった。
       孝謙天皇玉津島行幸の際は、供奉した熊野広浜が祖神であるから当社に詣で、
      『日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社』と号した。以来藤白王子、あるいは
       藤白若一王子権現社と呼ばれ、『藤代』とも表記された。
       平安から鎌倉にかけての時代、熊野信仰がたかまる中で、この地に大鳥居を建
       て、熊野一ノ鳥居として熊野九十九王子中、最も格式の高い五体王子の一とな
       り、熊野聖域の入口門として、祓戸王子を鳥居の近くに設けた。歴代上皇法皇
       の熊野御幸は延べ百回に及び、当社に必ずしゅくはくされ、特別な催事が行わ
       れた。
      『吉記』(藤原経房)承安四年(1174)九月廿五日の条に『・・・藤代王子
       に於いて里神楽(県指定無形民族芸能藤白の獅子舞のルーツ)を行い、白米を
       給ふ・・・宝前信心殊に凝らす感応の甚だしきなり』とあり、藤原定家は建仁
       元年(1201)『後鳥羽院熊野御幸記』十月八日に『祓戸王子から御所へ二
       町ばかりの小宅泊 翌九日天晴 朝出立頗る遅々の間王子御前に於いて御経供
       養等有と云々 白拍子の間 雑人多く立隔て路なし 強に参る能はず 逐電し
       藤代坂を攀じ登る 五体王子 相撲等ありと云々』と記し、同日の藤代王子和
       歌会 詠二首倭歌(題深山紅葉 海辺冬月)の後鳥羽院の詠草は国宝『熊野懐
       紙』として残り、境内に歌塚と歌碑がある。宇多。花山・白河聖王三代の重石
       鈴木屋敷庭園、観音堂とともにこれら当時の面影をいまに伝える貴重な文化財
       である。」
  住  所:和歌山県海南市藤白448
  電話番号:
  ひとこと:この神社は、鈴木氏発祥の地であることで有名です。

       社務所には、
      「当神社は、鈴木さんの氏神でもあります。
       お参りの鈴木さんは社務所までご連絡ください。
       記念品をさしあげます」

       などと書かれた貼り紙があったりします。

       鈴木(雑賀)孫市もこのあたりの豪族だったようで、孫市ファンにとってもこ
       の神社はかなり有名なスポットなようです。

       雑賀孫市をご存知ない方のために、簡単に説明をすると、
       凄腕の鉄砲衆を抱えた武装集団の首長・・・とでも言えば良いでしょうか。

       もっと分かり易く言えば、
      「戦で信長に勝った、唯一の武将」
       ということになります。

       どうです。すごいでしょう?
       まぁ、明智光秀の奇襲も「戦」と言えないこともないんだけど、
       孫市の場合は、攻めてきた信長軍を蹴散らしているわけですから、やはり、格
       が違うという気がします。

       司馬遼太郎さんが、「尻啖え孫市」という小説で詳しく紹介されていますが、
       そこでは、孫市は、「チャーミングで豪快な人物」として描かれています。
       実際はどうかわからないけれど、なにしろ、魅力的な人物ではありますね。

       さて、そういう「明朗快活」な人物と縁が深いと同時に、この神社は悲運の皇
       子とも深く関わっています。

       藤白坂で亡くなった悲運の皇子と言えば・・・。
       そう、有間皇子ですね。

       境内に有間皇子神社のご由緒を転載しましょう。

      「今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承をめぐる
       複雑な争いの中で、十九歳の若さで散っていった悲運な方です。
       政的であった中大兄皇子が蘇我赤兄をさそい、有間皇子に天皇に謀反をするこ
       とをすすめました。うまくわなにかかった皇子はその釈明のため牟ロ(ロは米
       の下に女・・現在の白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路こ
       の藤白坂で絞殺されてしまったのです。
       途中で皇子の詠まれた
       家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
       磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む
       の二首が万葉集にのせられていますが、絶唱としてひとびとの涙をさそいます。
       ここから二〇〇メートル西の藤白坂の上り口に皇子の墓と佐々木信綱博士揮毫
       の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしております。境内の
       歌碑(雑賀紀光筆)と、歌曲碑(打垣内正作曲)の
      “藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれにけるかも”
       の歌は、それから四十三年後、持統・文武
       紀の温泉行幸の途次、お伴の人が皇子への同情と追慕から詠んだもので、これ
       も万葉集にのせられています。」

       天智天皇〜持統天皇の時代、つまり、日本書紀が編纂された時代、
       ということはつまり、「歴史についてのごまかしが、それほど利かなかったで
       あろう時代」にさえ、二人の「悲運の皇子」が存在します。

       この有間皇子と、大津皇子です。

       大津皇子は、持統天皇の息子であった草壁皇子を皇位につけんがため、謀反の
       罪を負って、殺された・・・とされてます。
       証拠があるわけじゃありません。
       日本書紀によれば、皇子は謀反を企んで、死を賜ったとなってるのみですから。

       時代背景や、万葉集に残る草壁皇子と大津皇子の石川郎女を巡る恋の鞘当など
       から、そう推理されてるんですね。

       草壁皇子としては、「聞いてないよ〜」と言いたいところかもしれませんが、
       これが、「定説」となっちゃってます。

       なにしろ、大津皇子は、「懐風藻」などで絶賛されてるものですから、こうい
       う「陰謀説」は好まれるんですね。

       まぁ、とはいえ、それだけ絶賛される人物が、現皇后の子供ではないというだ
       けで、また年が一つ若いというだけで皇位継承から外れるというのは、ぞれだ
       けでも不運とはいえるかもしれませんが、人は、「物語」を好みます。

       そして、「悲劇のヒーロー(ヒロイン)物語」には、必ず悪役が必要だという
       わけで、持統天皇&草壁皇子は、すっかり悪い人物のようにされています。

       しかし、ここで、有間皇子神社のご由緒を見てください。
       有間皇子への追慕の歌である、「藤白のみ坂を〜」の和歌を詠んだのは、持統
       天皇のお伴の人物であるとされています。

       手元にある、角川文庫「万葉集」を見ると、確かにこの歌は、
      「大宝元年辛丑の冬の十月に太上天皇・大行天皇の紀伊の国に幸す時の歌十三首」
       の中に入っています。

       つまり、持統天皇のお伴の人は、この「悲運の皇子」への追慕を口にすること
       を許されていた、ということです。

       もし、持統天皇が本当に大津皇子を謀殺したのならば、同じように謀殺された
       有間皇子については敏感になっていたでしょう。

       有間皇子に対する追慕の歌などを聴いたら、
      「私に対する嫌味?えぇっ?!」
       と、ヒステリーを起こしてしまうんじゃないでしょうか。

       もちろん、お伴の人々もそれはわかっていたでしょうから、もし、持統天皇が
       大津皇子を謀殺していたのならば、こんな歌は詠まなかったでしょう。

       そんなわけなので、持統天皇による大津皇子謀殺説は、私はあまり支持しない
       のですが・・・本題から逸れました。

       閑話休題

       有間皇子の話しです。

       彼の和歌について蛇足ながら解説すれば、

      「家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

       は、
       家にいたら、お皿に持ってご飯を食べるんだけど、旅先だからら、椎の葉っぱ
       に盛るよ。

      「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」

       は、
       磐代の浜松の枝を結ぶ。幸があれば、また帰ってきて見ようと思う。

       とでも現代語訳できるでしょう。

       なんでもない和歌ですが、これが、
      「謀反の罪を着せられた皇子が、命をかけた釈明の旅の途中に詠んだ歌」
       と聞くと、全く味わいが違ってきますね。

       普段ならば、いくら旅先といえども、皇子が椎の葉の皿でご飯を食べることな
       どないのかもしれません。
       椎の葉でご飯を食べるということが、「謀反人」とされた自分の身の上を思い
       知らされるよすがとなるのかもしれません。

       松の枝を結ぶという所作がどういう意味があるかわかりません。
       もしかしたら、幸運を祈るおまじないなのかも。

       わからないなりに、「繊細そうな横顔」が彷彿しませんか?

       そんなわけで、私は、天智天皇による有間皇子謀殺説は支持するんです。
       ・・・ってなんじゃそりゃぁ???

       いやいや、歴史なんて、主観で判断する他ないじゃないですか(笑)
       古文書などの資料が「真実」を書いてるわきゃないですし。

       大体、人間の心なんて、一面では量れません。
       もし、有間皇子の謀反が、濡れ衣だったとしても、皇子の心に「隙あらば中大
       兄皇子(天智天皇)を殺して自分が皇位につきたい」という一縷の気持がなか
       ったなんて言い切れません。

       反対もまたしかり。

       いろんな人の、いろんな思いが交錯して、「現実」は積み重なっていくのです
       から。

       ただ、この有間皇子について、講談社学術文庫「日本書紀」から、引用してお
       きましょう。

      「(斉明天皇四年)十一月三日、留守をまもる役目の蘇我赤兄が、有間皇子に語
       って、『天皇の治世に三つの失政があります。大きな蔵を立てて、人民の財を
       集め積むことがその一。長い用水路を掘って人夫にたくさんの食糧を費やした
       ことがその二。舟に石を積んで運び、岡を築くというようなことをしたのがそ
       の三です』と言った。有間皇子は、赤兄が自分に好意を持っていてくれること
       を尻、喜んで応答して、『わが生涯で始めて兵を用いるべき時がきたのだ』と
       いった。
       五日、有間皇子は赤兄の家に行って、高殿に上って相談した。そのとき床机が
       ひとりでにこわれた。不吉の前兆であると知り、秘密を守ることを誓って中止
       した。皇子が帰って寝ていると、この夜中に赤兄は、物部朴井連鮪を遣わして
       造営工事の人夫を率い、有間皇子の市経の家を囲んだ。そして早馬を遣わして
       天皇のところへ奏上した。
       九日、有間皇子と守君大石・坂合部連薬・塩屋連このしろ(魚ヘンに制)魚と
       を捕らえて、紀の湯に送った。舎人の新田部米麻呂が従って行った。皇太子は
       自ら有間皇子に問われて、『どんな理由で謀反を図ったのか』といわれた。答
       えて申されるのに、『天と赤兄が知っているでしょう。私は全く分かりません』
       といわれた。」

       朝廷や天皇を正当化するために編纂された・・・とされる日本書紀にこの記述
       があるというのは、驚きませんか?
       これを読んだ八割方の人は、有間皇子は天智天皇とその腹心の赤兄に騙されて、
       無実の罪を着せられて殺された・・・と思うんじゃないでしょうか??

       日本書紀編者にとって、人々に、「天智天皇は卑怯な方法で有間皇子を殺した」
       と思わせることが都合よかったのかもしれませんが・・・。

       私が注目するのは、中大兄皇子に対する有間皇子の釈明の言葉です。

      「天と赤兄が知っているでしょう。私は全くわかりません」
       うむ。潔い。
       強い目をした芯の通った顔立ちが浮かび上がってきます。

       結局皇子は、この日から二日の後・・・十一日の日、藤白の坂で絞首されてい
       ます。

       皇子は、最早自分が何を言っても、殺される運命だと知っていた。
       そういう風に感じますね。

       その割には、万葉集には、
      「真幸くあらば」
       と詠んでるんですけどね(^^ゞ

       また、日本書紀には、このようなことも書かれています。
      「(斉明天皇三年)九月、有間皇子は性さとく狂者をよそおったところがあった
       と、云々。」
       性さとく・・・つまり、生まれつき賢くということですね。

       どうです。賢そうなまなざしが浮かぶでしょう?・・・って、もういいか(笑) 

       繊細で、且つ、潔く、賢く、芯の通った皇子。
       しかも、十九歳で早逝。

       謀反が事実でも、濡れ衣でも、悲運の皇子であることは間違いないように思い
       ます。

       それならば、いっそのこと、謀反も濡れ衣ってことにしちゃう方が、想像する
       方も楽しいじゃありませんか。
       ・・・って、大津皇子の時と、言ってることが違う?
       いいんです。
       好みの問題なんですから(笑)

       頭の中で思いっきり美化した方が、お参りし甲斐があるってもんですしね。

       悲運の皇子にご縁の深い、この神社。
       是非、一度ご参拝ください。

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