祭 神:天穂日命 菅原道真 説 明:ご由緒書きによりますと、 「当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。 その後延喜元年一月(人皇第六十代醍醐天皇の御代)菅原道真公が太宰府へ下 る途中、河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった 菅原道真公の遠い先祖に当たる天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。 その後長保三年一月十五日(一条天皇の御代)菅原朝臣為紀という人がこの地 に来たときに残した種々の跡を調べ官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公 を合祀し船待天神社と改めた。 その後寛治年中に塩穴郷より今の湊の地に再建されたものである。」 とあります。 さて、この神社の境内には、「瘡神社」が鎮座しております。 参拝させていただいた時、この神社のご由緒も頂きましたので、併せて転記し ます。 「敏達天皇十四年三月、瘡疾流(あまね)く行り、死者国内に充盈つ、瘡を患む 者は、身焼かれ打たれ摧かるる如く、啼泣して死す。依って村民相議り本邦医 薬禁厭の祖神、少彦名神を鎮斎し、祭祀を営み神前に祈願す、霊験の灼然なる 瘡患忽ちにして息む。と社記に伝えている。 全国の神社仏閣に於いて行われている如く、素朴な信仰の心から生ずる小顔の 絵馬の受納と言う事は、当神社に於いてもいつの昔からか行われている。 当神社の絵馬には主として牛を書いたものと、馬を書いたものとの二つの種類 がある。 牛の絵馬は生草を喰うと言うところから最初の祈願のさいに拝受して帰る。 馬の絵馬は枯れ草を食うという意味からお礼参りの時に牛の絵馬に添えて納め て帰る慣例になっている。 昔は神社の附近の駄菓子屋などの店先に沢山つりさげて売って居ったが、時代 の推移につれて現今はそんな家は一軒もない。 泥絵の具で書いた雅拙な民芸品は見たくとも無いようになった。 今回、当神社崇敬者の内の郷土趣味ゆたかな人々から、昔の張りぼてや木板の 絵馬にかえて、川崎巨泉画伯の図案によって陶工第十四代湊焼当主の製作にか かる土製の絵馬を寄附せられたので、神社に於いては之れを頒布することにし た。」 住 所:大阪府堺市西湊町1−2−18 電話番号: ひとこと:土製の絵馬・・・。 参拝した時に気づきませんでした(T_T) さて、この神社のご由緒を拝見するに、 今現在は、「船待神社」と呼ばれ、主祭神を「天穂日命・菅原道真公」として いるけれども、そもそもこの場所に鎮座していたのは、「瘡神社」であり、主 祭神は、「少彦名命」であったということがわかります。 そこで、瘡神社に少し注目してみたい。 「瘡(もがさ)」とは、時代小説やら川柳やらを見ると、よく目にする字ではな いでしょうか? それは一体どんな病気なんでしょうか? 「疱瘡」とは、別名「天然痘」。 現在は、1980年に根絶宣言が出され、現在の私達にとっては、もはや、 「恐ろしい病気」ではない、と言ってもいいかもしれません。 この病気については、 「ジェンナー博士が、牛の膿を『ワクチン接種』することを発明し、予防が可能 になりました。」 ということを、小学生の理科で習われたのではないでしょうか? あと、 「四谷怪談のお岩さんは、幼い頃にこの病気に罹ったため、顔にひどいあばたが 残ってしまったのだ」 ということもご存知かもしれません。 症状としては、高熱・発疹。 致死率が高く、伝染性。 致死率が高いことや、後遺症が残ることもさることながら、伝染性のため、隔 離が必要である、ということもこの病気を恐れさせるに十分だったでしょう。 ところで、江戸時代、笠森稲荷信仰が流行したことがありました。 この「笠森稲荷」は、吉原の近所にあったそうで。 「瘡(かさ)」を病んだ遊女や、瘡を怖れる遊女達が、 「瘡から守る」=「瘡守(かさもり)」とかけて、この「笠森稲荷」を信仰した ことによるようです。 つまり、遊女達は、よっぽど「瘡」を怖れていたのだということがわかります。 ・・・しかし、確かに、「粘膜の接触」を商売とする遊女が、伝染病を恐れる のはわかりますが、天然痘をそれほど恐れたのか?と疑問になりませんか? ええ、そうです。この場合「瘡」は天然痘ではありません。 「瘡」とは、「梅瘡」。 現代で言えば、「梅毒」のことなのです。 この辺りの知識は、吉行淳之介氏の小説やエッセーを読めば、自然と仕入れる ことができるのですが、 氏は、「梅毒は、二期に全身に発疹がでた後、一旦キレイに消えてしまう。そ れを快癒したと勘違いする人が多かったのだろう」と著書「あの道この道」に 書いておられます。 ・・・と、私が今、何を言おうとしているかといいますとですね。 この「瘡神社」に、ことさらにこの「瘡」という字が残っているからには、あ る時期、この神社にも「疱瘡」ではなく、「梅瘡」の患者が列をなした時期も あったのではないだろうか? ということです。 堺は港町。商人の町。 賑やかな街であったことは想像に難くありません。 賑やかな街には、遊郭もやはりあったでしょう。 華やかな女性達が、この神社にいそいそと参拝したことはなかったのでしょう か? 少彦名命は、いたずらっ子の神というイメージと共に、「病気を背負う神」と いうイメージも付き纏います。 それは、「医薬の神」=「病気平癒の神」という側面もあるのでしょうが。 この小さな神に、「病気を背負わせる」という考え方は、何もあてずっぽうで はありません。 京都にある「五条天神」や、「由岐神社」は、疫病が流行すると、 「疫病を流行させた罪」 により、流罪にさせられました。 そして、五条天神と由岐神社のご祭神には、少彦名命の名があがっています。 しかし、罪人を流罪にするだけでは、その「罪」、つまり疫病はおさまらない でしょう。 とすると、やはり、この「流罪にされる神々」に、疫病を背負わせた上、流罪 にしたと考えるのが自然です。 「流し雛」と考えは同じですね。 少彦名命は、医薬の神でありますが・・・。 実は、それら諸々の罪を背負って「流される」神であったのではないか、と。 だからこそ、彼は、うつろ船に乗って流れてきたのではないか、と。 彼の姿絵のような「一寸法師」は、お椀の船で流されたのではないか、と、そ う思えてならないのです。 なぜなら、一寸法師を老夫婦に授けたのは住吉の神。 住吉の神もまた、イザナギ神が罪穢れを祓った時に生まれた、「罪穢れの化身」 に関係の深い神だと考えられるからなんです・・・。