shigoto

御香宮

gokougu




  祭  神:神功皇后 仲哀天皇 応神天皇 
       宇倍大明神 瀧祭神 河上大明神 高良大明神 仁徳天皇 菟道稚郎子尊 
       白菊大明神 
  説  明:ご由緒書を転記します。
      「御祭神
       日本第一安産守護之大神と称せられる神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇、
       応神天皇ほか六柱の神をおまつりする。
       仲哀天皇は、日本武尊の第ニ皇子で御身の丈高く容姿端正、御年三十三歳
       で御即位。翌年、気長足比売をたてて皇后となされた。即ち神功皇后であ
       る。
       当時九州の熊襲が叛いて帰順しなかったので、親征されたがはかばかしか
       らず、不幸陣中で崩ぜられた。そこで皇后は武内宿禰と議し、熊襲よりも
       先づその後押しを断とうとせられ、御懐胎の御身を以て、親ら兵船を進め
       られた。間もなく筑紫に凱旋せられて、お生れなされたのが誉田別命即ち
       応神天皇である。皇后は摂政として、天皇を輔け給うこと七十年。内は複
       雑な内紛を処理して、国力の充実を図り、外は国際的主導権を握り、ここ
       にはじめて我が国民の国家意識が自覚された。応神天皇の御代には百済王
       が裁縫師を奉り、弓月君は百二十県の民を率いて渡来し、博士王仁は論語
       と千字文を奉った。また阿知使主は十七県の部族を率いて渡来し、更に呉
       の国に行って縫工女を求めて帰った。そこで、養蚕、機織、建築、造船、
       其の他美術、工芸等の新しい技術をはじめ、文字や儒学まで、一時にどっ
       と我が国に流れ込んで来た。こうしてもたらされた大陸の先進文化を摂取
       して、ここに日本文化の根底が築かれたのである。
       御由緒
       今から千百年ほど前、即ち清和天皇の御代、この境内に大変香の好い水が
       湧きでたので、その奇瑞に因んで、『御香宮』の名を賜ったと伝える。
       円融天皇以後、屡々社殿を造営せられ、後宇多天皇は弘安三年に元軍討平
       祈願の為種々の幣物を奉られた。後伏見天皇の御代にも社殿の御造営あり。
       伏見宮家の御先祖、伏見宮貞成親王は産土神として特に御崇敬遊ばされ、
       御祭礼には必ず猿楽や相撲を御覧になり、又屡々お百度やお千度をなされ
       たことが、御日記の『看聞御記』に詳しく誌されている。応仁の乱には、
       当社も兵火に罹ったので、その後は小さいお宮を建てておまつりしていた。
       天正十八年七月、豊臣秀吉は小田原城の北条氏を討ち滅して、国内統一が
       ほぼできたので、更に海外にまで勢力を展ばさんと、翌八月十一日、当社
       に願文と太刀(備前長光作、重用文化財)とを献じてその成功を祈った。
       やがて伏見城の建設に着手、文禄三年当社を城の艮に遷し、社領三百石を
       献じた。
       秀吉の歿後、徳川家康は慶長十年、またもとの所に社殿を造営し、秀吉同
       様三百石を献じて明治維新に及んだ。
       慶応四年正月(九月八日明治改元)伏見鳥羽の戦いには、伏見奉行所に幕
       軍が拠り、当社は薩摩藩の屯所になったが、幸いに兵火をまぬがれた。
       古来安産の神として信仰があつく、明治以前は、御幸宮とも称して、『幸』
       を招く神・守護をする神として広く崇敬されていた。
       末社十六社、大神宮、春日社、天満宮、新宮、熊野社、那智社、稲荷社、
       東照宮、住吉社、八坂社、恵比須社、厳島社、豊国社、若宮八幡宮。」
  住  所:京都市伏見区御香宮門前町
  電話番号:075−611−0559
  ひとこと:なぜか、神功皇后は、「神水」とご縁が深い。
       茨木市にある「磯良神社」も、神功皇后をご祭神とし、境内から神水が湧
       出します。

       この神社の境内から湧き出る「御香水」は有名らしく、ペットボトルを何
       十本と抱えた人やら、10リットル容器を5〜6個持った人やらが列をな
       しておりました・・・。

       当然(せっかちな)私は、
      「すいません、一口だけ飲んでいいですか?」
       と、その場の人たちに会釈して、飲ませていただいたのですが・・・。
       確かに、香高いような気がほ〜んのりしました。

       その香る水よりも瑞々しい舞妓さんも境内で一休みしておられまして(笑)
       う〜ん、京都だ〜〜〜。

       さて、ここで恥ずかしい告白をせねばなりません。

       記紀で、熊襲征伐に汲々とする天皇が、なんでまた海を越えた国に攻め入
       ろうなんて考えるのか、全く理解できませんでした。
       なるほど。
       新羅が熊襲を後押ししていたからなんですね。
       なるほどφ(..)

       しかし、記紀には、そのようなことは書かれてなかったような気がします。

       とりあえず、日本書紀のこの部分を一部抜き出してみましょう。

      「仲哀天皇紀
       秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。ときに神が
       あって皇后に託し神託を垂れ、『天皇はどうして熊襲の従わないことを憂
       えられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りな
       い。この国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見え
       る国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国と
       いう。もしよく自分を祀ったら、刀に血をぬらないで、その国はきっと服
       従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の
       御船と穴門直践立が献上した水田・・・名付けて大田という。これらのも
       のをお供えとしなさい』と述べられた。
       天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで高い岳
       に登って遥か大海を眺められたが、広々として国は見えなかった。天皇は
       神に答えて、『私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。
       どうして大空に国がありましょうか。どこに神が徒らに私を欺くのでしょ
       う。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられま
       す。どうして残っておられる神がありましょうか』といわれた。
       神はまた皇后に託して『水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下し
       ている国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこの
       ようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。た
       だし皇后は今はじめて孕っておられる。その御子が国を得られるであろう』
       といわれた。天皇はなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てない
       で帰った。
       九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。」

       ふ〜〜〜む。やっぱり、「新羅が熊襲を後押ししてた」らしきことは、書
       かれてないですね。
       古事記になると、もっと「ややこしい」んです。

      「皇后の息長帯比売の命は神懸かりをなさった方でありました。天皇が筑紫
       の香椎宮においでになって熊曾の国を撃とうとなさいます時に、天皇が琴
       をお弾きになり、建内の宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここ
       に皇后に神懸りして神様がお教えなさいましたことは、『西の方に国があ
       ります。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国に多くあるが、わ
       たしが今その国をお授け申そう』と仰せられました。しかるに天皇がお答
       え申されるには、『高いところに登って西の方を見ても、国が見えないで、
       ただ大海のみだ』と言われて、いつわりをする神だとお思いになって、お
       琴を押し退けてお弾きにならず黙っておいでになりました。そこで神様が
       たいへんお怒りになって『すべてこの国はあなたの治むべき国ではないの
       だ。あなたは一本道にお進みなさい』と仰せられました。そこで建内の宿
       禰が申しますには『おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお弾き
       遊ばせ』と申しました。そこで少しその琴をお寄せになってしぶしぶとお
       弾きになっておいでになったところ、間もなく琴の音が聞こえなくなりま
       した。そこで火を点して見ますと、既にお隠れになっていました。」

       ね?
       サスペンス劇場顔負けの「ややこしさ」でしょう?

       まず、「そこで火を点して見ますと」とありますから、舞台は真っ暗闇に
       近い暗さだったことが伺えます。

       そこにいるのは、天皇・皇后・そして、建内宿禰のみ。

       突如、皇后に神が懸かり、神託を告げるが、それは天皇には妄言としか思
       えない内容の託宣だった・・・というわけです。

       ちなみに、この話しだけを見ると、「神託を疑うなんて、仲哀天皇が悪い!」
       とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、そうではありません。
      「審神官(さにわ)」と呼ばれる役割の人がいます。
       字を見てある程度想像がつくかと思いますが、巫女に懸かった「神」の正
       体を明らかにする者のことを指すようです。

       三省堂の「大辞林」で「さにわ(さ庭)」をひきますと、
      「1.神おろしをして、神のお告げを聞く場所。斎場
       2.神のお告げを承る人。霊媒者。
       3.神楽で和琴を弾く人。」
       と説明されていて、巫女さんと同じような役割のようでもありますが・・・。

       講談社の「日本語大辞典」で「さにわ(さ庭)」とひくと、
      「神道で、託宣を取り次ぐ人。神懸りの席で神霊が乗り移る尸童(よりまし)
       に対座し、その内容の真偽の判断や、ついた神の位階を定める者」
       と説明されています。

       神懸りの状態・・・と一言で言っても、懸かったのが神か、狸か、それと
       も神懸った人が単にヒステリー状態なのか、一見してわかるものではあり
       ませんよね。

       そこで、さにわが登場し、「神」に質問をすることにより、それが「神」
       なのか、「タヌキ」なのか、それとも「ヒステリー」なのかを判断するわ
       けです。

       大辞林の「神楽で和琴を弾く人」という説明も、仲哀天皇が琴を弾いてい
       たとする古事記の記述と併せて考えると、面白い。

       確かに、「仲哀天皇の審神」は、間違っていたのかもしれません。
       しかし、決して、
      「懸かった神を疑う行為」自体が不遜であるというわけではない、
       というわけです。

       だいたい、考えてみてください。
       偏差値50の大学を受けようとして何度も失敗している人がいたとします。

       今年もダメだったら、困るので、
      「神様、どうぞ今年は合格しますように」
       と祈ったら、
      「そんな大学を受けずとも、もっといい大学があるよ。そこは偏差値70く
       らいの大学だ。そこを受けなさい」
       と神託が返ってきたとします。

      「やったぁ!」

       と喜べますか?
       
      「はぁ?!」
       と、戸惑うやら、驚くやら、困るやら(笑)
       じゃないでしょうか?
       仲哀天皇の疑惑は至極最もです。    

       それでは、なぜ仲哀天皇は死んだ、か。
       疑惑自体が不当なものじゃなければ、その罰で死ぬというのは、酷である
       ように思います。

       しかも、仲哀天皇の死の場面は、言ってみれば「密室」です。
       妻と、そしてその妻が親しく頼りにしている「忠臣」しかいない暗い場。
       な〜んか、怪しい。

       ・・・という疑いは、私だけが持つものじゃあないでしょう。
       ないですとも。

       つまり、この神懸り劇は、「仲哀天皇暗殺の為」に仕組まれたお芝居だっ
       た・・・という推測が、できないことはないですよね。
       まぁ、王道過ぎて却ってそうは思えない、という意見はあるかもしれませ
       んが(^^ゞ

       しかし、そうすると、また新たな疑問が出てきます。

       仲哀天皇を暗殺したいだけならば、
      「神が、まずは大国新羅を討てと託宣した」
       という「芝居」をする必要まではないじゃないですか。

       なぜ、その「無理がある神の託宣」を公表したのでしょう?
       それは、もう、新羅へ行くための「大義」が必要だったからですよね?
       でも、もし、神の託宣が偽りならば、新羅への遠征は自殺行為です。

       事実、熊襲を討つことさえ叶わないのに、更に大国新羅を討とうとするの
       は、現実的ではないでしょう。

      「新羅を討った」という話しは、すべて、「法螺」かなぁ?
       とも思えたりします
       いや、実際、神功皇后の三韓征伐は、疑問視されてますけどね(笑)

       ただ、新羅に勝てなかったとしても、遠征だけはしたのかもしれない。
       でもなぜ?

       この神社のご由緒にあるように、「新羅が熊襲と手を結んでいたから」な
       のだとしたら、新羅には討伐目的ではなく、「熊襲を手を切らせ、自分と
       同盟を結ぶための交渉に行った」とも考えられます。
       そして、「同盟を結ぶための遠征」をうまく利用して、天皇に神を疑わせ、
       そして、そのことをまた利用して、天皇を暗殺した・・・と。

       そう考えると、無理がない。

       新羅と同盟を結んだからこそ、応神天皇の時代、新羅からいろいろな人々
       がやってきたのだ、とも考えられますね。

       う〜ん、スッキリ。

       でも、やっぱり・・・。
      「神の託宣は、やっぱりやっぱり本物だった」
       という考えも捨てきれないんですよね。
       かなり無理があるけど・・・。

       無理があるけど、
       それでも、「神の託宣は本物だったかもしれないよね?」と思わせるのは、
       神功皇后の魅力ってものなんでしょう、多分。

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