祭 神:須佐之男命 稲田姫命 大己貴命 説 明:境内案内板を転記します。 「氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月末の日の 御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天 皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄 多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれ てから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一見やと定められ、醍醐天 皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣 に預かり又臨時祭にも奉幣に預かっています。武家時代になってからは鎌倉、 足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し、社領 を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。 明治の御代に至っては、明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・ 勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。 次いで明治四年には官幣大社に列せられました。 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になら れ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ、社殿、その 他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃い で御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇 太子・同妃殿下)が御参拝になられました。」 蛇の池の説明を引用します。 「古来、蛇は水神の化身とされ、ご祭神の須佐之男命はその大蛇(八岐大蛇) を退治した伝承に因り、水を治める神とされる。ご祭神の神威神徳に由来し、 この池は蛇の池と呼ばれている。 蛇の池は境内の神池やその先に広がる見沼の水源の一つで、現在でも池中深 くより、水が湧き出ている。 この神秘的な湧水があった為に、この池に当社が鎮座したとも伝えられ、氷 川神社発祥の地とも云われる」 住 所:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1−407 電話番号:048−641−0137 ひとこと:この神社に参拝したのは、1月13日でしたが、まだ境内は初詣客でごった 返しておりました。 なによりびっくりしたのがですね。 ご祈祷を受ける参拝者で、拝殿の中が満員電車並にパンパンだったのでござ います。 ものすごく興味深いな・・・・・・・・というかですね、 「はぁ・・・首都近辺鎮守の神様はやっぱり違うのぅ・・・」 と感心した次第でございます(^^ゞ さて、この神社の摂社は、3社。 門客人神社:足摩乳命 手摩乳命 天津神社:少彦名命 宗像神社:多起理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命 足摩乳命と手摩乳命は、御祭神である稲田姫命のご両親にあたり、すなわち 須佐之男命の舅・姑にあたります。 少彦名命は御祭神である大己貴命とともに、葦原中国(日本)の国づくりを した神ですね。 多起理比売命・市寸島比売命・田寸津比売命は、御祭神である須佐之男命が、 高天原において天照大神と誓約をして産んだ神です。 ですから、これらの神々が摂社に鎮座・・・つまり主祭神と関係の深い神と して大切に斎き祀られていることになんの疑問もないのですが、面白いのは、 この社名だと思うのです。 まず、少彦名命は、「天津神社」に祀られています。 「天神」つまり「あまつかみ」とは、高天原由来の神様を指しますから、高天 原の主催者である高皇産霊神の御子(古事記では神産巣日神の御子)である 少彦名命にはぴったりの名ではあります。 ただ、高天原には神様がたくさんおられます。 その中から、なぜ、少彦名命が「天津神」として祀られているのでしょうか。 それは即ち、天津神の中でも特に、少彦名命とご縁が深い人々がこの神社の 創立に関わっていたということでしょう。 少彦名命と関わりの深い人々といえば、葦原中国の人々、つまり古代出雲の 人々でしょう。 それは、ご由緒にある、 「成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川 神社を専ら奉崇し」 という文章からも裏付けられるかと思います。 所謂「天神」については、いろいろと考えてしまうんですが、まとまらない ので、このへんで(^^ゞ また、多起理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命は、宗像大社に祀られて いる、所謂「宗像三女神」であらせられるので、宗像神社に祀られているの は不思議じゃありません。 が。 「門客人神社」 というのは、どういう意味でしょうか。 関西ではあんまり見かけない社名だと思うんですよね。 これで、「まろうどじんじゃ」と読んだり、「もんのまろうどじんじゃ」と 読んだりするようです。 武蔵国では「門客人神社」の祭神というと、足摩乳命と手摩乳命を指すよう なのです・・・しかしですね。 出雲にある日御碕神社の摂社である「門客人(もんのまろうど)神社では、 櫛岩磐窗神と豊磐窗神・・・所謂「門神」を祀っているんです。 氷川神社が出雲の民の神社であるとしたら、この相違はなんなんでしょうね。 いや、それよりもまず、「門客人」とはなんなのでしょうか。 「アラハバキ」と呼ばれる「神」が存在します。 関西ではまず聞かない名の神ですが、東北を中心として祀られている神のよ うです。 荒脛(あらはばき)神社という名の神社は、宮城県に鎮座するのですが、こ の神の名は、例えば、神社新報社の「日本神名事典」のような、記紀寄りの 資料では、一切無視されてます。 どの国においてもそうですが、古代において、民族同士の争いは激しかった に違いありません。 日本においては、縄文文化と弥生文化が存在することは、誰しも社会化の授 業で習ったでしょう。 両者が、全く別者だとは思いません。 縄文人が、渡来した弥生文化を習得し、その担い手となったこともあるでし ょうし、弥生人渡来以降に日本へやってきた人々もいるでしょう。 この両者の区別をはっきりつけることは難しいだろうと思います。 が、土着・先住の人々と、新参者・渡来者の争いは、間違いなくあったでし ょうね。 そして、新しい文化の担い手であった、弥生人が縄文人を北へ南へと追いや ったということもまた、異説はあれども、一般的に言われていることだと言 っても良いかと思います。 土着・先住の人々が祭った神を、新参の人々はどう扱ったでしょうか? つまり、アラハバキ神とは、土着の人々が祭った神であったと考えられてい るわけですね。 ならば、東北を中心に祭られていることにも説明がつきます。 アラハバキ神を信仰する人々は、東北へと逃げたのではないかということで すね。 そして、記紀によれば、出雲・・・葦原中国とは、高天原の侵略を受けて、 降参した国でもあります。 つまり、彼らが、アラハバキ神と一緒に東北に逃げた、その途中、この氷川 神社近辺で暮らした時期があった。 そう考えても、特段不思議はないわけです。 その、「門客人社」に、稲田姫の父母が祭られている。 もちろん、たまたまかもしれませんが・・・。 「アラハバキ」を「荒脛」と表記するのと関係があるのでしょうか。 足摩乳・手摩乳という名は、なんだか不思議です。 手と足。それが、摩るわけですから・・・。 神が、その民を、体全体で愛撫する姿が彷彿とはしませんでしょうか。 そう考えるとき、縄文土偶の豊満で柔らかそうな肉体を思い出して仕方がない のです。