祭 神:媛社神 織女神 説 明:境内案内板を引用します。 「七夕神社は、正式には媛社神社といい、肥前国風土記(七三0年頃)の中に記載があり、当時 すでに大崎のこの地に神社がまつられていたことがわかります。祭神は、神社縁起に姫社神と 織姫神と記されています。 また、今から千年以上前の延喜式という書物には各地から朝廷に差し出す献上品の一覧表が残 っています。それによると、小郡を含む筑後の国の献上品は米と織物になっており、この地方 は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。また古来織物に携わってきた人々は織物 の神として『棚機津女』という機織りの女神を信仰していました。この棚機津女の信仰と中国 より伝わった織り姫・彦星の物語が混然同化して、織物の神をまつる棚機(七夕)神社として 親しまれるようになったと思われます。 老の話によれば、この神社は『七夕さん』として親しまれ、八月六日の早朝から翌七日の朝に かけて、筑前、筑後、肥後一帯から技芸上達のお詣りで大崎に通じる道路は参詣社で列をなし た」と語っています。 また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松社があり、ここに、大正十二 年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。天の川と同じく南北に流れる宝満川とその 両岸にまつられた織姫と牽牛は天井の物語を地上に配した様になっており、そこには昔の人々 の信仰とロマンが感じられます。 「神社の言い伝え 媛社神社の歴史は古く、その起源は1300年前に書かれた『肥前国風土記』にさかのぼりま す。 『肥前国風土記に書かれた文章を要約すると、次のようなものになります。 昔、姫社(今の鳥栖市姫方町付近)の地に悪い神がいて、旅する人を多く殺していた。そこで 土地の人が困って占ったところ、宗像(今の宗像市付近)に珂是古という人がいて、その人に 神の社を祀らせると良いとでた。そこで珂是古は、幡を掲げ、その神がいるところに落ちるよ うに祈祷して幡をとばした。幡は風にしたがって飛んで行き、御原の郡の姫社に落ちた。(基 肆郡姫社郷の条) この姫社の社が、現在の媛社神社の起源です。」 住 所:福岡県小郡市大崎1 電話番号: ひとこと:風土記から、当社にあたる部分を引用しますね。 「姫社の郷 この郷の中に川がある。名を山道川という。その源は郡の北の山から出て、南に流 れて御井の大川と出合っている。 昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者 が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、そ の卜占のしめすところでは、『筑前の国宗像の郡の珂是古にわが社を祭らせよ。もしこの願い がかなえられたら凶暴な心はおこすまい』とあった。そこで珂是古という人を探し出して神の 社を祭らせると、珂是古はやがて幡を手に捧げ持って祈り、『まごころから私の祭祀を必要と されているのなら、この幡は風のままに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ』と いい、そこでただちに幡を高くあげて風のままに放してやった。するとその幡は飛んで行き、 御原の郡の姫社の杜に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。 珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神のおいでになる場所を知った。その夜の夢に 臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が舞をしながら出てきて珂是古を押さえてうなされた。そ こでまたこの荒ぶる神が女神であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行 く人も殺されなくなった。そういうわけで姫社といい、いまは郷の名となった」 気になっていたのは、「半分殺す」という記述。 難所でもあったのでしょうか。 それとも機織り関係? 神に捧げられた棚機の乙女のうち、半分は殺されたとか。 いろいろ気になる記事なんですけどね~(^^ゞ