祭 神:大己貴命 少彦名命 説 明:ご由緒書を転載します。 「伊香保神社は第十一代垂仁天皇朝(紀元前29~70)時代に開基されたと伝えられている。弥生時代のこの頃の 祭神は、山の神(大山津見神)であったと言われている。 律令制度ができ、整うころの飛鳥・奈良時代にかけて、全国的に国司が派遣されてから伊香保神社の祭神は、 大国主命・少彦名命の二柱を祀るようになった。尚、この二柱の神は温泉の湧出する地域に多く祀られるよう になり、伊香保もその例外ではなかった。 律令制度には、太政官と神祇官がおかれた。神祇官は神々の信仰をつかさどる機関で神祇官により管理された 神社を官社と言った。 平安時代・延長五年(927)に完成した延喜式神名帳には、2861社の官社(これらを式内社といった)が記載 され、伊香保神社もこの中に登場している。承和二年(835)九月十九日、第五十四代仁明天皇朝(833~850) に伊香保神社は名神大社を授けられた。名神大社はとくに霊験あらたかとされた神を名神(明神)と呼び、こ れを祀る神社のことを言った。尚、式内社の内224社が名神大社となった。 神に対して朝廷から位階を与えられる制度もできた(神位または神階)正一位から正六位上までの十五階の制 度であった。伊香保神社は、仁明天皇朝・承和六年(839)六月、従五位に列せられ、累進して第五十七代陽 成天皇朝(876~884)元慶四年(880)従四位に、第九十一代御宇多天皇朝(1274~1287)建治元年(1275) 正一位に列せられた。 その後、律令制度がゆるみはじめ、これとともに官社制度も次第に名目的となり、神社の管理が中央だけでな く地方へも移るようになった。官社は官幣社(神祇官の管理下の神社で畿内に集中)と、国幣社(それぞれの 国の管理で国司が必要な費用をまかないその任にあたった)に分けられた。やがて神社の管理は自由となり神 前で、僧侶が読経する神前読経も行われるようになり、神社祭祀が多様化する流れの中で、古代の神祇制度は 崩壊していくようになった。 古代の神祇制度の変質の流れの中で中世に入り、総社・一宮制が生まれた。畿内には有力な神社が集中し、こ れらの神社は天皇家・貴族が支えた。地方ではそれぞれの国の国司に任じられた畿内に住む貴族たちが赴任し なくなったため、その国に住む領主が実質的に神社の実務などの行政も行うようになった。このような中で生 まれた神社制作が総社・一宮精度である。鎌倉時代初期、大和国-大神神社、常陸国-鹿島神宮、信濃国-諏 訪大社、下総国-香取神宮のように、一宮制ができたがこれに準ずる二宮・三宮・・・を定める国もあった。 上野国は十二宮を定め、伊香保神社は一宮貫前神社、二宮赤城神社についで三宮伊香保神社となった。 室町時代、応仁の乱(1467~1477)からはじまり、戦国時代の約一世紀の間、荘園領主によって支えられてい た総社・一宮の儀礼も乱れたが、延暦寺等の密教を中心とする旧来の仏教は圧倒的な力を持ち、神社は寺院に 対して従属的な立場に立つことが多くなった。 やがて神社は武士によって管理されるようになった。戦国時代から織豊政権そして徳川幕府へと統一した政権 になると、神社制度も新たな段階をむかえた。吉田神道のもとに大半の神職は統一された。吉田神道は神道・ 儒教・仏教は究極的に一致するという三教が、一致する思想を基盤として成立し、人を神としてまつることも 推進した。また、江戸時代には神社の勧請があちこちにみられた(例 稲荷社・八幡神社・諏訪大社等)。応 仁から千石にかけて途絶えていた大嘗祭や式年遷宮も再興された。 江戸幕府の崩壊後明治初期の宗教政策は、神道の自主性を高めることであった。明治元年(1868)神仏分離令 などで神社崇敬を宗教政策の中心に据えた。これにより神社と寺院、神職と僧侶とが分離され、長くつづいた 神仏習合状態が一挙にかえられることになった。 このようにして制定された近代社格制度で政府管轄の神社(官幣社)地方管轄の神社(国幣社)地方管轄の神 社(府県社)などができ、伊香保神社は県社を賜ることになった。ちなみにこの時代の神社の総数は約十一万 社あったといわれている。また神位制度はこの時代に廃止された。 現在神社は基本的に国家とのつながりが切れ民営化されている。その結果、国家による社格制度は廃止され、 官幣社・国幣社といいう制度はなくなった。また、神社総数は全国に約八万社弱あるが、ほとんど神社本庁の 傘下にある。 神位・社各制度は右にみたとおりであるが、昔も今もかわらずにあるのはご祭神であり、また神々の霊験あら たかなことも永遠に変わらない。」 住 所:群馬県渋川市伊香保町伊香保1番地 電話番号: ひとこと:温泉街にある神社ですが、本来は山の神ということですから、ご神体は山だったのでしょう。 かなり急な坂でした。