祭 神:伊香我色男之命 配祀:建速須佐之男命,天照大御神 説 明:境内案内板を転載します。 「延喜式内社・祭神は猪名部造の祖・伊香我色男命を主神とし、須佐之男命、天照皇大神をはじめ、代々の祖紙を祀 る。 北側の御本殿は境内社で瑞穂神社と唱え、明治四十一年春、各地に鎮座した諸神を合祀された社である。 高塚大神と記された古墳は、猪名部氏のお墓で、大社の地名の如く、昔は広大な境内中に散在した十七基の古墳の 最大のものである。 猪名部氏族の中からは、春澄善縄朝臣を始めとして、歴史に残る多くの偉人を輩出しているが、鎌倉の御代に入っ て、建久三年員弁大領であった郡司員弁三郎行綱が青少年の士気を鼓舞するため、追野原で奉納した流鏑馬の神事 が、依頼七百八十有余年伝統を誇る郷土の奇祭として四月の第一土日曜の両日、賑々しく厳修される。 尤も猪名部氏の発生は兵庫県の猪名川周辺から奈良に移り、名高い東大寺大仏殿建立の総指揮を司った豪族で、た めに当神社は、千二百有余年の昔より、日本の正史に明記される、建築技術・学問・器用さを与える神として、熱 誠溢れる氏子崇敬社の信仰心と共に、将来益々神徳燦然と輝くであろう。 謹書 二十四世宮司 石垣方覚 謹製 賛成目 石竹 三重県神社庁の説明を転載します。 「『員弁郡郷土資料』に、「郷社猪名部神社は、本郡に於ける大社にして本郡幣帛料献進之社なり、毎年四月八・九 日を 以て祭典を挙行す、流鏑馬式神事あり、参拝観覧人堵の如し、当社は『延喜式神名帳』に伊勢員弁郡猪名部 神社とあるは此の社にして、三代実録貞観元年(八五九)五月の条にも此の記録あり、(以下略)」とあり、明治 三九年の『神社明細帳』に、「『延喜 式神名帳』に、伊勢国員弁郡猪名部神社とあるは、即ち此社にして三代実 録に、貞観元年(八五九)五月二六日辛巳授伊勢国従五位下員弁大神正五位下、同八年閏三月一三日戊午授伊勢国 正五位下員弁大神従四位下、同一五年九月九日辛未掌侍従五位上春澄朝臣高子奉弊氏神向伊勢国勅賜稲一五百束以 為行旅之資とある。春澄の氏神是なり、春澄高子後洽子と改名あり。典侍は参議従三位春澄朝臣善繩卿の長女なり、 善縄卿は 伊勢国員弁郡の人にて員弁少領猪名部造財麿の男周防大目豊雄の男なり。天長の初年 達官後左京に移 住し、同五年猪奈部造の姓を改め春澄宿祢、後に朝臣を陽われり、されば春澄朝臣の本姓猪奈部造にて員弁郡の土 着なりしなり。此に依て此を見れば員弁大神社頭に接して高塚と呼ぶ陸墓の大なるものあり、其余若干の塚境内に 散在す。是員弁大神を氏神と称し、末裔の春澄氏其祭祀を奉じ来りしものならん。(中略)村邑を大社と云うも此 大神の社あるより唱ふるなるべし」とある。四日市の善戦寺の仏像の胎内から出た藤原実重の供養願文に、「文暦 二年(一二三五)五月二日、大社の大明神へ紙一帳はな米三升まいらす」とあり鎌倉時代の初めすでに近郷に有名 な社であった」 住 所:三重県員弁郡東員町大字北大社797 電話番号: ひとこと:上げ馬神事や流鏑馬で有名な神社ですので、神馬に会えるんじゃないかという下心ありで参拝したのですが、普段 は神社境内にいないようでした。残念(笑) 猪名部氏については、木工技術で知られる氏族だということくらいしか知りません。 その祖神が、「大国主の別名」とされる中から、伊香我色男……「いか」の強い男だというのが興味深い。 湖北には、「いかつおみ」を祀る神社がいくつかありまして、「いかつおみ」は藤原氏の祖神の一柱。 春日大社の若宮こと天押雲根命と同一視されていたっぽい話もある……というのは、伊香具坂神社のご由緒に、伊 香具神社の祭神は、天押雲根命であるとあるからです。 伊香具神社の祭神は、イカツオミということになっていますからね。 なんなんでしょうね、「イカ」って。 イカは「烏賊」とも書くように、死んだふりをして海に浮かび、近寄ってきたカラスを獲って喰らうと信じられて いた動物です。 つまり、ずるがしこいと考えられていたんでしょうね。 そんな「烏賊」の名前をもつ人物とは……。 気になりますねぇ。