祭 神:建速須佐之男命 説 明:案内板からご由緒を転載します。 「『山城綴喜郡誌』によれば、大宝三年(702)統治に鎮座し、文治四年(1188)源頼朝により神事料として 土地の寄進をうけたとある。以前は牛頭天皇社とし称され、明治になり石田神社と改称された。現在、祭神 は建速須佐之男命である。境内は堀状の水路が周囲をかこみ、樹々が茂る鎮守の森の様子をよくとどめてい る。 本殿は、嘉永四年(1851)の造営で、比較的大きな一間社の流造である。木津川の水害を意識してであろう か、一段高い石垣の上に建っている。現在の拝殿は平成七年に建てられたものであるが、享保二十年(1735) 再建時に葺かれた刻名入りの鬼瓦が拝殿に納められている。 また、明和二年(1765)に書かれた算額がある。 同村庄屋の一人である伊佐誠徴によるもので、五問の和算問題が示されている。京都では八坂神社のものに 次いで、全国で九番目の古さといわれている。 江戸中期の八幡地域で、文化教養に関心が強かったことを示す、よい証拠といえる。また、鳥居と向かい合 って社の東側に、高さ3メートルほどの十三重石塔がある。南北朝のもので、重要美術品級である。 平成二十年 秋 八幡市郷土史会」 「上津屋里垣内にある当社は、里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で、牛頭天王社と称し、明治 になって石田神社と改称した。 祭神は素盞嗚神で牛頭天王と同体で、当地が都度都度木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護 神として信仰された。 当社に伝わる『天王神社記』によると、起源は大宝二年(702)隣村内里の山中に現れた素盞嗚神と上津屋の 地に祠ったことに始まるという。治承四年(1180)源三位頼政の兵乱で社殿は焼失、復興のために文治四年 (1188)源頼朝により神事料を寄進された。その後元弘の乱で笠置山参陣の際に楠木正成が当社に立ち寄り、 願文を奉納したと記されている。 鳥居東の神輿蔵横に立つ十三重の石塔は、その形状から南北朝時代のものという。 近年社殿から発見された棟札によると、永禄元年(1558)社殿造営の後、定期的に檜皮の葺き替え修理が行 われていた。現在の本殿は嘉永四年(1851)の造営になり、神社に残る古文書や浜上津屋の伊佐家文書から も社殿普請や遷宮等の様子がうかがえる。 他には庄屋伊佐政徽が明和二年(1765)に奉納した算額(和算問題を図入りで示す)があり、京都府で八坂 神社に次ぐ古さをもつ。 氏子中の努力で古文書や棟札等の貴重な資料を豊富に伝える神社である。 1995年3月 八幡市教育委員会」 住 所:京都府八幡市上津屋里垣内77 電話番号: ひとこと:八幡市岩田北ノ口にも「式内石田神社」がありますし、八幡市内にはいくつも石田神社が存在しています。 でも、ざっと見たところですが、御由緒が示されているのはここだけだったような。 どういう関係なのかはよくわかりませんが、本家争いなどもあるのかもしれません。 木津川の氾濫で疫病が流行ったというのはよくわかります。 スサノオは治水の神でもありますし。 ふさわしい神様ですね。