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石清水八幡宮

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  祭  神:中御前 譽田別尊(應神天皇)
       西御前 比咩大神(多紀理毘賣命 市寸島姫命 多岐津毘賣命)
       東御前 息長帶比賣命(神功皇后)
  説  明:ご由緒書を転記します。
      「應神天皇
       仲哀天皇の皇子で御母は神功皇后である。御在世の御名を大鞆別尊と申し、一
       に譽田別尊とも、胎中天皇とも称える。天皇は深く内外の政治に大御心を用い
       られ、或いは文学を奨励し、或いは殖産興業を盛にし、或いは数多の池溝を開
       いて灌漑の便を計り、又大船を作られて交通の道をも開かれたので、当時国内
       は勿論、韓土との交通は甚だ頻繁となった。乃ち天皇の十四年には百済王より
       縫衣工女眞毛津を貢し、同年秦の始皇帝の裔と云う弓月君は、百二十七縣の民
       を率いて百済より帰化し、蚕を養い絹を織って奉り、十五年には百済王阿花が
       阿直岐を遣して良馬を貢献し、翌十六年には百済より博士王仁が召に応じて論
       語千字文等の書を携え来たった。太子菟道稚郎子は之に就いて博く諸典籍を学
       ばれた。二十年には後漢霊帝の裔、阿知使主及その子都加使主と共に十七縣の
       黨類を率いて帰化し、その後二人を呉に遣わして縫工女を求められたので、兄
       媛、弟媛、呉織、穴縫を率いて我国に機業を伝えた。また三十一年官船枯野腐
       敗した時、其船材を薪とし、焼いて得た五百籠の塩を、広く諸国に賜い船を作
       らせられたので、諸国一時に五百船を献じたという。されば天皇は厄除開運の
       御神徳と共に、我国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められた。御陵は恵
       我藻伏崗陵と申し、大阪府羽曳野市誉田六丁目にある。
       比咩大神
       多紀理毘賣命、市寸島姫命、多岐津毘賣命三柱を申し、天照大御神の神勅を受
       け宇佐島に降り、その後、韓土と交通の要路に当る沖ツ宮、中ツ宮、邊ツ宮に
       遷って、皇土を主語し国威を耀し給うた、所謂宗像の大神である。
       神功皇后
       息長帯比賣命と申し、諡して神功皇后と申す。御幼少時より聡明且つ容姿壮麗
       であられた。仲哀天皇の二年皇后となられ、御内助の功が多かった。当時しば
       しば熊襲の反乱があって、国民は不安な生活を営むことが久しかったので、天
       皇は之を御親征になり、舟師を率いて海路筑紫に幸し、熊襲を討たれ、陣中に
       崩じ給うた。
       茲に於いて皇后は神威を畏み、武内宿禰と議り、秘して喪を発せられず、懐胎
       の御身をもって、男装して海を渡り、急に新羅を征し之を降し給うた。その後
       高麗、百済も亦臣と称して朝貢するに至った。爾来應神天皇を奉じて政を摂り
       給う事七十年、御年百歳で稚櫻宮に崩じられた。御陵は狹城盾列池上陵と申し、
       奈良市山陵町にある。
       創建
       南都大安寺の僧行教は、清和天皇の貞観元年七月十五日、豊前国宇佐八幡大神
       の『吾れ都近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん。』との御託宣を蒙
       った。仍って木工寮權允橘良基は宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、翌貞観ニ
       年四月三日、此処に三所の神璽を奉安せられたのを当宮創建の起源とする。
       社号
       当宮は古来石清水八幡宮と申してきたが、明治の初年男山八幡宮と改称された。
       然し、石清水の称号は創建以来千有余年の久しい間、歴史上最も由緒深い社号
       であったので、大正七年一月二十三日再び旧名石清水八幡宮と改称仰出られた
       のである。明治四年五月官幣大社に列せられた所謂勅祭社である。」
  住  所:京都府八幡市八幡高坊30番地
  電話番号:
  ひとこと:つまり、この八幡宮は、宇佐八幡宮とかな〜り深い関係にあるんです。

       貞観元年を西暦になおすと、859年。
       清和天皇即位(858年11月7日)の翌年でもあるわけです。

       清和天皇即位の時、御年なんと8歳。数えで言っても、まだ9歳。
       かなり、無理のある即位であることがわかります。

       その年に、九州からはるばる遷座された神・・・。
       その神になんの意味もないはずがありませんね。

       新しい御世が始まるとき、
      「このような時代にしたい」
       そういう抱負はあったでしょう。
       その為に、この九州の神や、この神々を斎祀る人々が必要だった、そういうこと
       ではないでしょうか。

       どういう風に必要だったか?
       それは、いろいろな方が考察されていますので、ここでは、何も(笑)
       っつぅか、私は、石清水八満の歴史について、まったく勉強してない、って話し
       で・・・(^^ゞ
       すいませ〜〜〜んっ!!m(__)m

       ただ、この九州は宇佐八幡神宮の神は、
       和気清麻呂に対して、
       当時、女帝・称徳天皇の寵臣であり、藤原氏にとっては眼の上のたんこぶであっ
       たに違いない「弓削道鏡」が皇位につくのは相応しくない、
       と託宣をした神です。

       つまり、「藤原氏の味方♪」な神様であったのではないか、と思います。

       清和天皇は、藤原良房の孫にあたる天皇です。
       清和天皇が9ヶ月という若さ(笑)で立太子した裏には、この祖父のごり押しが
       かなり働いていた、とされています。

       そんなわけですから、この神様のご遷座は、「あり得べくしてあった」と言える
       かもしれないですね。

       さて。
       清和天皇・・・文字を見て、何かひっかかるかもしれません。

       清和天皇と清和源氏って関係あるの?

       大アリですとも!!!

       大辞林で「清和源氏」をひくと、
      「清和天皇から出た源氏。天皇の孫経基王が源姓を賜り、その子満仲は摂津多田荘
       に土着、さらにその子頼光は摂関家と結んで勢力を伸ばした。頼義・義家は関東
       に進出、頼朝は鎌倉幕府を開くなど、子孫は各地に繁栄。佐竹・武田・平賀・新
       田・足利の諸氏はいずれもこの流れに入る」

       ざっと見ただけでも、
       源満仲・源頼光・源義家(八幡太郎義家)・源頼朝、と、有名人揃いの家系であ
       ることがわかりますよね。

       さらに、この家系には木曽義仲公もおられます。
 
       中でも、源義家は、別名が八幡太郎義家。
       この神社で元服したんですね。

       そんなこんなで、八幡様は、源氏の氏神となっていったということのようです。

       ところで、歴史の授業で、
       平安時代は貴族の時代。
       鎌倉時代以降は武士の時代、と習いませんでしたか?
       貴族は武士の席巻を恐れたが、結局時代の波には逆らえず、武士の天下となって
       しまった、と。

       しかし、この、清和源氏を見ればわかるように、武士とは実は貴族の傍流なので
       す。

       貴族の時代、「武士」と呼ばれる人々は、やれ鬼退治だ、化け物退治だ、と、命
       を懸けた大仕事を押し付けられた感があります。
       動物の死に触れる仕事さえ嫌った公家貴族にとって、人の死に触れる職業であっ
       た武士とはどのように、その目に映っていたのか、私はいつも疑問に思います。

       同じ貴族を源流とする武士を、公家貴族はどの時点で、「自分達とは別者」と見
       なしたのか。
       なぜ、そんな単純に、「別者」と区別をつけられたのか。
 
       武士とは、華々しいだけの存在だったのか、その光のうちに「影」はなかったの
       か。
       
       ・・・などということを考えてしまうのです。

       結果的に、ではありますが、「武士の頭領」たる「源氏」の氏神となった、八幡
       大神。
       この神様に、そのような「影」が・・・ないとは言えない気がします。

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