祭 神:天之常立尊 八束水臣津努命 淤美豆奴命 説 明:境内案内板を引用します 「八一〇年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守 りとして身につけていた神前の目付(根付?)の玉石が急に重くなりました。 そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。 金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた『玉鋼』の産地で、原料の砂鉄が採れる谷を多 く所有し、金具の文字で表されているように鉄のことを『かね』と読んでいた事から、 金の採れる谷を多く持つ郷『金持』と呼ばれるようになったと伝えられています。」 「ここ鳥取県日野郡日野町金持は、全国に広がる金持一族発祥の地である。古代、鉄を産 したことにより当地は『かもち』とよばれ『金持』の漢字があてられた。やがてここに 藤原姓の金持党が生まれ、鎌倉時代初めの元久年間には金持広親公が伯耆守護となるな ど、砂鉄を背景として次第にその勢力を拡げた。その後、宝治合戦で敗れて雌伏してい た金持党が再び世に現れたのが元弘の変である。 隠岐を脱出した後醍醐天皇は、名和長年の援けを得て船上山に拠り鎌倉幕府追討の檄を 飛ばした。 これに応えて馳せ参じたのが金持大和守景藤公率いる三百余騎の軍勢であった。景勝は 後醍醐天皇の京都帰還の際には、錦の御旗を奉じてその左に従うなど、股肱の臣として 建武の新政の重要な地位を占めたのである。以後、金持党は終始南朝方として各地を転 戦した。しかるに南朝は次第に衰亡、伯耆は北朝方の山名氏によって支配され、金持党 はその本拠を失うに至った。しかし、金持党の末裔は転戦さきにてその名字を残してい る。金持の地を離れたことにより、読み方は『かなじ』『かなもち』『かねもち』など に変わったが、多くはここ金持党の末裔である。金持党誕生以来、九百余年その本貫で あるこの地に碑を建立するものである。 二〇〇九年 姓氏研究家 森岡浩撰」」 住 所:鳥取県日野郡日野町金持1490 電話番号: ひとこと:この神社の創建に、出雲の神官が関わっているのは、偶然ではないでしょう。 出雲たたらの技術を持った人々が、この金持で製鉄をするためにとどまったという意味 に受け止めれば自然です。 でも、ご祭神が大国主ではなく、それより古い層の神・八束水臣津命なんですよね。 縄文系の製鉄民族もいたんだろうなぁ。 しかし、この「金持」の名に惹かれてか、すっごい参拝者の数(^^ゞ 暑かったっす(笑)