祭 神:金山彦命・金山姫命 説 明:境内案内板を引用します 「当社に伝わる「金屋子祭文雲州比田ノ伝」に依れば、金屋子神は、村人が雨乞いをしていたと ころへ雨と共に、播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)に天降り、吾は金作りの金屋子神である、 今よりあらゆる金器を作り、悪魔降伏、民安全、五穀豊穣のことを教えようと。かくして磐石 をもって鍋を作り給うた。故にこの地を岩鍋という。だが、此処には住み給うべき山がなかっ た。そこで、吾は西方を司る神なれば西方に赴かんとして、白鷺に乗って西国へ赴き、出雲の 国能義郡黒田奥比田の山林に着き給い、桂の木に羽を休めておられるところ、たまたま狩りに 出ていた安部正重(宮司の祖先)が発見し、やがて神託により、長田兵部朝日長者なる者が宮 居を建立し、神主に正重を任じ、神は自ら村下(技師長)となり給い、朝日長者の集めた炭と 粉鉄(砂鉄)を吹き給へば、神通力の致すところ、鉄の涌くこと限りなしとある。 明治七年に天田神社、同四十年に八幡宮外十社を合祀した。」 住 所:島根県安来市(能義郡広瀬町)西比田167 電話番号: ひとこと:菅谷たたらを見学した後に参拝しました。 菅谷たたらは江戸時代にできたものですが、たたらの歴史はかなり古いでしょうね。 金屋子神の光臨はいつでしょう。 高殿の前にある桂の樹の大きさを見れば、1000年前にはできていたのじゃないかなと思います。 樹齢はわからないんですけどね。 菅谷たたらの中で一部だけ注連縄がされており、館主さんに聞くと、そこは砂鉄を置く場所だ とか。 そこには金屋子神がおられ、村下(むらげ たたらのリーダー)との親密な関係を築くのだそ うです。 製鉄の神はどこか暗い印象がありますが、白鷺に乗って光臨したという伝説は美しいですね。 2016年5月22日。 金屋子神が出発したとされる播磨国岩鍋(宍粟市)の荒尾鉄山の遺跡へ行ってきました。 私有地であり、ほとんど調査もされていないようですが、かなり大きな製鉄所であったことが しのばれます。 その案内板も転載しておきます。 「ここは千種町岩野辺字荒尾にあるところから『荒尾鉄山』と称し、江戸時代から明治時代の初 年頃まで操業したようです。河内の高羅鉄山が閉山して残りの砂鉄を大勢の女の人がカマスや 粉鉄負いで荒尾山へ背負って運んだのを見たという話が残っています。 この土地は個人の所有地で開発計画もないところから、発掘調査もなされておらず、経営者も 地元の人でないことまおって、詳しいことはまだ十分に知られていません。 下から上がってきた正面の大きな岩の下に雨を避けるように地蔵さんを刻んだ石碑が建ってい ます。 願主は大阪の泉屋(後の住友財閥の祖)と曽根(高砂市)の紀国屋(みかんの紀ノ国屋ではな い)の二人が山内の安全やら良鉄量産を祈願したようです。嘉永三年(1849)幕末の頃に 建てています。 しかしその三十六年後には近代製鉄に押されて閉山となっています。 たたら場への道と新しい林道の間に墓地がありますが一基だけ『三河国松平荘常蔵』と読み取 れる石碑があり、人々の交流の広さが偲ばれます。 (文責者 上山 明)」 金屋子神降臨の地は少し離れた場所にありますが、ここの案内板はこう。 「岩野辺の人々はここを『山の神』と呼んで神聖視してきたところです。 元来岩野辺の縁故地であり、周囲の山々と同様に一反五畝歩の分割地として個々が管理してい ます。 谷川に面した所に桂の老木が茂り、根元に小さな祠がお祀りしてある、人々はこれを『金屋子 さん』と言って、丁寧に扱いお祭りしている。 特に出雲地方の人々は『我々の元祖だ』『ルーツはここか』と言って今でも一年に二組や三組 は身に来たり、お参りしています。 出雲の旧広瀬町『金屋子神社』の祭文(のりと)によると、高天原から採捕に地上へ降臨した 所は播磨国志相郡岩鍋という所で『我は民草を救い、天皇を助けるために天降りをした。今か ら鍋作りをするので、よく見習うように』と言って、近くの岩を砕いて鉄を掘り出して、鍋釜 を作っていたが、『ここでいつまでも居るわけにはいかない。西の方の人が私が行くのを待っ ているから』と言って白鷺に乗って出雲に至り、西比田という所の桂の木に止まっているのを 村人が見つけ、そこに住居となる大きな社を建て、村人と共に鉄を取り鍋釜を作り豊かにくら したということが書いてあります。 最初の降臨した所で、岩を砕いて鍋を作ったところから『岩鍋』という地名をつけた。と岩野 辺の地名が『岩鍋』であったことも書いてあります。 尚、金屋子神の祠はこれより2.2kmの地にあります。 (文責者 上山 明)」 桂の木は見つけられなかったので、次の機会にでも。 祠は……たたら公園にあったものでしょうか? これも確信が持てないので、また次の機会に。