祭 神:袁邪本王 説 明:案内板を転載しますが、消えかかっている部分が多く、抜けがあります。 「当社の創立は人皇第十代崇神天皇の御宇にして、軽我孫公は第十三代成務天皇の御宇、軽野地三千米を御供奉田 として奉納せられ、貞観八年七月、清和天皇は国家大平五穀豊穣の勅願をなし給ひ、笹木道誉は造営料として寄 進さる。応永二十五年佐々木京極時高は武運長久を祈願され金口一口を寄進、文明二年九月多賀豊後守高忠は神 領安堵状を寄せられ、明応六年安孫子日向守実綱は武運長久祈願のため、宗家より拝領せし劒及薙刀と御供田を 奉る。萬治三年勧修寺宮良尚法親王は親書を修め給ひ元禄四年藩主井伊直興公は金燈蘢一対を寄進さる。 社号は往古軽野神社と称し、軽野公安孫子春日神社を経て軽野神社に改称。堅井之大宮は、通称なり」 住 所:滋賀県愛知郡秦荘町岩倉123 電話番号: ひとこと:袁邪本王は、日子坐王と沙本之大闇見戸売の第二子。 つまり、狭穂彦と狭穂姫の弟です。 滋賀県愛知郡秦荘町蚊野外41に鎮座する御霊神社は、由緒などが一切わかりませんが、その御祭神は、袁邪本王 命・狹穗彦命・狹穗比咩命。 不遇の死を遂げた貴人が祟り神となった場合、「御霊」と呼んで祀った事例は、平安時代以前にもあったのでし ょうか。 そしてもしあったのなら、狭穂彦と狭穂姫も御霊として畏れられたんでしょうか? また、ここ軽野神社の社名は、軽我孫公から来たものでしょう。 『新撰姓氏録』によれば、軽我孫(阿比古)氏の始祖は、白髪王。 そして白髪王は日子坐王四世の孫とされています。 日子坐王にはたくさんの子がいるものの、誰が白髪王につながったのかわかりません。 古事記によれば、 「袁邪本の王は葛野の別・近つ淡海の蚊野の別の祖先です」 とあるので、袁邪本王はこのあたりを開拓した人物でもあるのでしょう。 そうであれば、白髪王は、袁邪本王の曽孫と考えるのが自然ですが……。 もしかして、狭穂彦と狭穂姫の子では……と妄想も、できなくはない(笑) このあたりの伝説や伝承はどうも独特のようで、いろいろ妄想が広がります。