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祭 神:武甕槌命 經津主命 天兒屋根命 比咩大神 説 明:田邊廃寺跡の説明を転載します。 「國文化財史跡指定 田邊廃寺跡 指定 昭和五十年七月九日 所有者 春日神社 田辺廃寺は渡来系氏族田辺史氏の氏寺として、白鳳時代末に田辺史大隅により創建されたと考えられます。 昭和四十六年大阪府教育委員会の調査で、金堂、西塔、東塔、南大門、中門、回廊の遺構が検出されました。中門 の北側に束西両塔を配した薬師寺形式に属する伽藍配置が確認されています。 東塔の基壇は塼を積み上げたもので、今も美しく残っています。一方の西塔は平瓦を積み上げた瓦積み基壇となっ ています。 東西両塔の礎石は良く保存されており、当時の偉容を誇った田辺寺を物語っています。 さらに両塔の伽藍の中軸線上に金堂跡があり、飛鳥の衣をまとった石仏が鎮座されています。藤原宮期に金堂、西 塔が建立された。 現在の春日神社の西側に中門跡の礎石の痕跡が認められています。 この調査で発見された遺跡物として、軒丸瓦、平瓦類や塼、釘、高杯がみられる。土器類として須恵器は甕腹に青 海波もみられ、土師器や磁器片も認められる。 軒の端丸丸は八葉無子弁文で各弁は縁取りをしてある事が特徴的である。祭器類等と共に収蔵庫に保存しています、 文部省 大阪府教育委員会 柏原市教育委員会」 住 所:大阪府柏原市田辺1丁目16‐34 電話番号: ひとこと:田辺史といえば、日本書紀に登場する、有名な話の主役です。その名は田辺史伯孫。「はくそん」と読むようです。 事件が報告されたのは雄略天皇の九年、秋七月の壬辰の朔日というのですが、実際の暦と合致するのかどうかはわ かりません。 報告された日は新月ですが、事件が起きたのは月の綺麗な晩のことでした。 娘は古市郡に住む人書首加竜という人物の妻となっていたのですが、女児を産んだというので、伯孫はお祝いに訪 れました。 その帰り道、伯孫は蓬蔂丘にある誉田陵のそばで、赤馬に乗った人と出会うのです。 その馬の見事なことと言ったら!! 龍のように跳ね、いきなり鴻のように驚きます。その大きなことといったら、峰のよう。本当に立派な馬なのです。 伯孫はこの馬に近づき、なんとか自分のものにできないかと考えます。 そして、自分が乗っていた葦毛の馬に鞭をあててその馬に並び、競争を挑みます。 ところが、その赤馬は脚も速かった。とてもじゃないけど敵いません。 伯孫は、赤馬の持ち主に、なんとか自分の馬と取り替えてもらえないかと頼みました。 すると、意外なことに、あっさり承諾されたのです。 伯孫は大喜びで家に帰り、鞍を降ろして馬にまぐさを与え、厩に入れて、眠りました。 ところが次の朝、赤馬の様子を見に行くと、どこにもいません。 そのかわり、埴輪の馬が、ゴロリと転がっていたのでした。 驚いた伯孫が、誉田陵に行って見ると、御陵に並べられた埴輪馬の間に、自分の葦毛の馬がいるじゃないですか。 そこで、自分の馬をそこから引き出し、そのかわりに、家から持ってきた埴輪の馬を、その場所に、そっと置いた のでした。 そしてここ、田邊廃寺は、もう一つ有名な史実があります。 大和朝廷の礎を築いたと言っても過言ではない、有能かつ多能な政治家、藤原不比等公が、幼い時代を過ごした場 所でもあるのです。 日本書紀が編纂されたのは、まさしく藤原不比等の時代。 編纂を命じたのは天武天皇とされますが、実際に編纂されたのはそれに続く女帝三代の時代。 そして彼らが誰よりも頼って信じたのが、不比等公だとされます。 その日本書紀に、なぜこんな物語が記録されたのでしょうか。 まず、赤馬に乗っていたのは、誰でしょう? 赤馬の持ち主は、陵の主、誉田別天皇……つまりは、応神天皇だということになるんじゃないでしょうか。 第十五代天皇にして、もっとも栄えた時代の天皇、応神天皇は、生まれながらに腕に「ほむた」つまり、弓を射る 際に腕につける武具のような盛り上がりがあったため、「ほむたわけ」の名があるとされます。 田辺史伯孫は、応神天皇が馬を授けてやろうと思うような人物であった……と、遠回しに表現されているような気 がします。 また、赤馬が埴輪に戻ってしまっても騒ぎ怒らず、様子を確認して自分の馬を取り戻し、埴輪馬も元の場所に戻し たというエピソードからは、彼の誠実さと豪胆さもみてとれます。 この春日神社の由緒については、ほとんど何もわかっていないようで、柏原市のサイトにも「よくわからない」と 書かれています。 でも、この地で幼少期を過ごした藤原不比等と無関係なはずがないでしょう。 多分、藤原不比等は、田邊史氏のことを、そしてこの地を愛したのではないかな、という気がします。