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祭 神:神櫛別命 天照大神 天御中主 説 明:境内案内板を転載します。 「人皇第十二代 景行天皇の皇子 神櫛巫女は我が讃岐国造の始祖にして、南海に出没せし悪魚を討する等、治績大 いに奉り、民深く其の徳を服せり。宝算百二十歳を以て薨去せられ、民敬慕欽仰の餘、神として是を城山の頂上に 祀れり。是此の神社の創始なり。 菅公の此の国に守たりし時、偶々大早苗種悉く枯れんとす。公至誠祈願を捧げらるるや、急に甘雨大いに降り、爾 来神威赫々、遠近崇敬至らざるなし。 貞治元年、細川両家の争戦の時、兵火に罹り、御神体ばかり印鑰の地に移して、印鑰大明神と称し、其の後この地 に移し奉る。実に延喜式内名神大県社なり。 昭和四十七年歳旦」 「この社は延喜式内大社にして、讃岐国三社の一つである。 伝説によれば、第十二代景行天皇の三十三年、神櫛王勅命を受け、南海の悪魚を討たんと讃岐の国に来り、櫛楔山 の麓を根拠に、祓戸の神、大麻、大歳の神に祈り、これを退治す。 天皇これを賞し、讃岐の国造に任ず。 王城山に城郭を築き、この国をよく治め給う。王、仲哀天皇の蜂ねん九月十五日、御歳百二十五歳にして薨ず。国 人、その徳を奉斎し、城山の嶺明神ケ原に廟を建て、城山大明神神櫛別命として祀る。これ城山神社の由来なり。 後、清和天皇貞観五年、従五位上に叙せられ、醍醐天皇延喜四年延喜式大社、明治三十六年県社となる。 又仁和四年、時の国司菅原道真公は、大旱魃に際し「城中数者茲社尤霊」を城山の神に雨を請う。神霊これに応え て大雨ぞ降る。民人大いに喜び、感極まり、念仏を唱えながら踊り狂う。これ今に至る念仏踊りにして、この社尊 厳の一事なり。神力あり。境内境外末社数社を数える。時経て、天慶三年藤原純友正平十七年、細川清氏の兵火に 罹り、その都度御神体は印鑰 北谷の地に祀れ現在に至る。 現建物は、本殿明治二十六年、拝殿天明六年、社務所大正八年の細見で、大正九年と昭和六十年に大修復されてい る。」 住 所:香川県坂出市府中町4760 電話番号: ひとこと:讃岐国においては、田村神社、粟井神社と並ぶ、延喜式内名神大社であり、そのご祭神が讃岐国造の祖であり、記 紀には詳しい事績がないけれども、讃岐では悪魚退治の英雄とされている神櫛別命だというので、お参りしました。 神櫛別命は景行天皇の皇子。 つまり、大和武尊の異母兄弟ですからね。 英雄の素養はあるのでしょう。