shigoto

高賀神社

kouga

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さるとらへびを退治する藤原高光

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鳥居の真ん中に見えるのが高賀山の山頂






  祭  神:國常立尊 豐斟渟尊 國狹槌尊 泥土煮尊 沙土煮尊 大戸道尊 大戸邊尊 面足尊 惶根尊
       伊弉諾尊 伊弉冉尊 大日靈貴 天忍穗耳尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鵜鵜草葺不合尊
       素盞嗚尊 天御中主尊 太玉命 天兒屋命 猿田彦神
  説  明:境内案内板から、由来を引用します
      「霊亀年間(715~717)に夜な夜な怪しい光が出て当地の方向に飛んでいくのを都の人々が目撃し
       驚いた。そこで高賀山の麓に神檀を飾ったところ、この光が出現しなくなった。これが高賀山本
       神宮の始まりである。その後、牛に似た妖怪が住みつき、村人ンい被害を加えていたので、承平
       三(933)年に天皇の勅命を受けた藤原高光がこれを退治し、高賀山麓に神々を祀ったという。
       また、天暦年間(947~956)にも妖怪が出没し、再び藤原高光が退治した。この時、高賀神社、
       那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並町)、滝神社(美濃市)、
       金峰神社(美濃市)六社が祀られた。近世になると、三度妖怪が現れ、近衛天皇の時(1142~1155)
       頭は猿、体は虎、尾は蛇の姿をした怪獣が現れ、とされ今日まで「さるとらへび伝説」として伝
       えられています。なお、美並村を流れる粥川の鰻が藤原高光の案内をしたと伝えられて、今日で
       もこの地区の人々は鰻を殺さないとのことで、現在ここに棲息する鰻は、天然記念物に指定され
       ています。
       高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期
       には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵
       菩薩信仰が導入され、『高賀山修験』が成立しっと言われている。また、鎌倉時代以降から明治
       時代の神仏分離までは、神道の神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたと
       され、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神自然
       崇拝の神としてではなく、高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る神の山として尊ぶその信仰
       がこの地に成立した」
       あまづか(通称には蛇池という)
       1430年(永享二年)六月の文書中、干時にて苗が枯れつつあったとき、若宮権現追来神社裏手に
       大穴を掘り、田楽や神楽の奉納、大般若心経等の奉読等を続けることにより、二日後三昼夜適量
       の雨量があったとあり、仏法と神力は信ずるだけのことがある等が記されている。
       その後の干時にも諸奉納とともに池をさらえることにより、適量の降雨に恵まれたことが文書に
       記されている。由緒ある池」
       
       大寶神社の由緒を境内案内板から引用します。
      「高光公と猿虎蛇の由来
       高賀神社の縁起によれば、奈良時代(約一千三百年前)高賀山に妖魔が住みつき、この地はもと
       より遠く都にまでも黒雲を駆け夜毎出没しては人々に危害を加え、深く帝をなやましたのである。
       帝は、藤原高光公に是れが退治の勅命を発せられました。早速、高光公は勇者廿数名を伴って、
       この高賀の里に来りて、峯々谷々を隈なく狩られるも、妖魔は姿をあらわすことなく、たゞいた
       ずらに日数を重ねるばかりであった。
       妖魔は、時には『ふくべ』に、ある時には『かぶら』に変身しては峯高くあるいは谷深く住み替
       え、容易にその正体を表さなかった。
       高光公は、そこで高賀神社の神前にぬかずき、三・七、二十一日の願をかけられた。
       その甲斐あって満願の日、神は瓢ケ岳に御降臨となり、高光公に必殺の弓矢を下し賜れた。
       善貴星なる神の御先導により山奥深く入り給えば妖魔はすでに其の気配を感じてか呻り声は山々
       谷々に地鳴りして容易に近づき難き様相なるも、高光公は勇を鼓らして進ほどに巨大なる岩屋あ
       り、高光公一行が突入せんとするや、妖魔は猛然として襲い来ることが幾度か、もはやこれまで
       と鷹光は神より拝受の弓に満身こめて矢を放てば、猛り狂うさしもの妖魔も大音たてて地に伏し
       た。熱戦実に十数合武運目出度く取り押さえて見れば・・何んと頭は猿で胴体は虎、尾は蛇の妖
       怪であった。
       多くの民人に危害を加えた妖魔に最後の止めを刺さんと高光公が跨れば、尾の大蛇までもが大口
       開いてはげしく抵抗したが高賀神社の大神より授かりしお力で目出度く本懐を遂げられたのであ
       ります。
       高賀神社は養老元年創建になる勝負の神、弓矢の神、大願成就の守神、降伏魔災のご祈願所とし
       て広く尊崇を集め今日に到っている。
        一九八八年(昭和六三年)八月八日 高賀神社」
  住  所:岐阜県関市洞戸高賀1217番地
  電話番号:
  ひとこと:頭は猿で胴体は虎、尾は蛇の妖怪ということですから、狸の胴体が虎に変わった妖怪ですね。
       もとはこっちだったのかもしれません。
       
       鵺の胴体が狸なのは、狸の皮がふいごに使われたから……つまりたたらの民の暗喩ではないかな
       んて言われていますね。
       
       気になるのは「時にはひょうたん、時にはかぶらに化けた」というくだりでしょうか。
       情景が目に浮かばない(^^ゞ
       
       那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並町)、滝神社(美濃市)、
       金峰神社(美濃市)が、妖怪退治の神々ってことでしょう。
       まわりたかったんですが、最初に訪れた那比本宮神社までの道が落石だらけの悪路でタイヤパン
       クしちゃいまして( ;∀;)
       これは「今日は来るな」ってことだろうな~と素直に退散しました。
       
       ここの古い地名が、岐阜県武儀郡洞戸村奥洞戸字宮下であるのも気になるなぁ。
      「奥洞戸」
       ってなんだろう?
       
       それからね。
       すぐそばにありましたよ「阿部」っていう地名。
      「あべ」と製鉄は深い関係がありますからね。
       金屋子神社の宮司は代々安部氏がつとめているとか、西粟倉のたたら歌では、金屋子神の生まれ
       は「かつらはあべよ」と歌われることとか。
       
       もひとつ気になるのが、「さるとらへび」を退治した藤原高光という人物が、化け物退治とは縁
       の遠い人物と感じられることです。
       三十六歌仙の一人で、若くして歌をよくしたとされるくらいしか、事績がわからない。
       
       この地における化け物退治とは、いったいどういう史実がベースにあるのでしょう?
       皆目見当がつきませぬ。

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