祭 神:久々遅命(一説には日本書紀によって天湯河板挙命を祀るという) 相殿の神:大国主命 多紀理比売命 説 明:境内案内板を転記します。 「日本書紀によれば、垂仁天皇の御二十三年冬十月朔日、天皇が誉津別皇子を ともない、大殿の前に立ち給う時、鵠(くぐひ)が大空を鳴き渡った。その 時皇子が『これは何物ぞ』と問いになったので天皇は大いに喜び給い、左右 の臣に『誰か能くこの鳥を捕えて献らむ』と詔せられた。天湯河板挙が『臣 必ず捕えて献らむ』と奏し、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国 で捕えたといい、或いは但馬国に得たともいう。十一月朔日、目出度くこの 鵠を献上したのである。時に皇子は歳三十であるが、いまだ物言い給わず、 あたかも児の泣くが如き声のみで、この日始めて人並みの言葉を発せられた のである。これほどに鵠は霊鳥なので、その棲所の地を久々比と呼びなし、 その後(年代不詳)この地に宮を建て、木の神『久々遅命』を奉祀した。こ れがわが産土神・久々比神社の始まりであった。 さりながら、その頃、豊岡盆地は『黄沼前海』と称して全くの入海、下宮の 地は、その入り江の汀であった。又そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもろ う処、神自ら鎮まり坐す景勝の地であった。われ等の先人がこの自然の神秘 と霊妙を感得して木の神『久々遅命』を奉斎し、その御神徳の広大に帰依し たのも宜なる哉である」 住 所:兵庫県豊岡市下宮字谷口318-2 電話番号: ひとこと:境内にはもう一つ案内板があり、だいたい重なるのですが、こちらにはこん なことも書いてあります。 「久久比神社の鎮座する下宮は、昔より鵠(くくい:コウノトリの古称)村と 言われていたように、古来より国の特別天然記念物『コウノトリ』が数多く 大空を舞っていた地域であり、日本書紀によれば、天湯河板挙命がこの地で 『コウノトリ』を捕まえたという説が伝わる。 鵠をコウノトリのことだと断定してはりますが、それもそはず、ここは、但 馬コウノトリの里のそばにあり、PRになるんですね(^^ゞ 一般的には、「鵠=白鳥」ってことになってますが、昔のことで、白っぽい 大きな鳥はすべて、鵠と呼んでいたと考えても無理はない気がします。 とはいえ、鵠=コウノトリってのは無理あると思う(^^ゞ さて、誉津別命は、大人になっても言葉を発することができず、鵠を見て初 めて言葉をしゃべったということから、鵠は誉津別の魂だと考えられていま す。 鳥は人間の魂だというわけですね。 現代教養文庫の「古代エジプトの物語」に「バフタンの王女」という物語が 収められていますが、この中で、死んだ王女の魂は、鳥になって飛び立って いくと書かれています。 古事記物語で、天稚彦の葬式を、種々の鳥たちが担う場面が描かれているの も、死者の魂を扱うのは鳥であるという思想が反映されたものじゃないでし ょうか。 そう考えれば、誉津別の魂が鵠の姿をしているというのは、非常に意味深な ような気がします。 つまり、誉津別命は、生まれながらに死んでいた……と。 彼を生き返らせるために、鵠を捕まえることが必要だったのです。 鵠を捕まえるために、天湯河板挙が追いかけるのですが、その舞台となるの は日本海側の地域が目立ちます。 伝承が残っている場所をつぶさに調べれば、内陸や太平洋側もあるだろうと 思うのですが、よく知られているのは、 ・網野(網を張った) ・鳥取(鳥を取った) そして、この神社ではないでしょうか。 そもそも、飛んでいる鳥を捕まえるなんて、並大抵のことじゃありません(^^ゞ 追いかけるのすら、無理。 現代の技術をもってしても、至難の技じゃないでしょうか。 一度捕まえた鳥を追いかけるのなら、チップを埋め込むなどすればいいでしょ うけども。 この場合、空を飛んで行った鳥を追いかけるわけですからね〜(^^ゞ 無理、むりむりむりっ!! でも、その難しいことを、天湯河板挙はなしとげたのです。 それは多分、誰かの……おそらくそれを捕まえた地域の人々の……力を借りて のことでしょう。 この地域には、どんな人たちが住んでいたのでしょうね? 彼らはなぜ、魂=鳥を捕まえる技術を持っていたのでしょう?? そう考えると、非常に興味深い神社です。