shigoto

眞妻神社

madsuma

madsuma

日高郡印南町大字樮川520番地に鎮座する
樮川(ほくそがわ)の真妻神社

madsuma

ホルトの木






  祭  神:丹生津叱売命
  説  明:和歌山県庁のサイトから、由来を引用します
      「『丹生大明神告門』に「日高郡江川丹生爾忌杖刺給比て」とあり、応神天皇(343―385)の御代に、
       日高富士と呼ばれる真妻山に天降ったと伝えられる。
       そこに社をかまえ、神主12人が奉仕していた。
      『紀伊続風土記』に、当社は村の端真妻山の尾続にあり、脇之谷・松原・丹生・崎ノ原・皆瀬川・下
       津川・神野川・見影8箇村の産土神なり、相伝ふ當社明神、往古伊勢の丹生より鳶に乘りて真妻峯
       に影向ありしを、峯に崇め祭る故に氏下のもの鳶を取る事をせずと、鳶は当社大神の御使いとされ
       ており、社にも鳶の彫刻が多い。
       真妻山の山頂から松原の神田(800年代)に輿を進め、そこから現代の地に鎮座した。
      「永正九(1512)年丹生山久米寺律師法眠重譽」の祝文に「日高郡切目庄大山郷取分松原村年間崇敬
       真妻大明神申奉御神」とあるとおり、その当時からの信仰がしのばれる。
       丹生山久米寺は、真妻神社の神宮寺であったが、江戸初期に廃寺になり、本尊の地蔵尊は来迎寺に
       移され現存しているが、室町時代の依風を強く残している。
       また「建暦二(1202)年源空」の古文書が残っている所から、この神宮寺は法然上人の浄土宗であ
       ったことがわかる。
       しかし、古くは真言宗なりという。」
  住  所:日高郡印南町松原158番地
  電話番号:
  ひとこと:確かに、丹生大明神告門には、丹生都姫がさまざまな地を巡行されたことが書かれています。
       インターネット上で丹生大明神告門は読めないようですので、丹生都比売神社で配布されていた
      『丹生都比売神社の歴史』より、読み下し文を引用させていただきますね。
      「懸幕も恐き皇大御神を歳の中に月を撰び、月の中に日を選び定めて、銀金花さき開くよき日を選び
       定て、その歳(二月春御門 十一月秋御門)仕えまつりて申さく、高天原に神積ります天の石倉押
       し放ち天の石門を忍し開き給ひ、天の八重雲を伊豆の道別きに道別き給ひて、豊葦原の美豆穂の国
       に美豆け給ふとして、国郡は佐波にあれども、紀伊国伊都郡奄田村の石口に天降りまして、大御名
       を申さば恐こし申さねば恐こき伊佐奈支、伊佐奈美の命の御児、天の御陰日の御蔭丹生津比売の大
       御神と大御名を顕はし給ひて、丹生川上水分の峯に上りまして国かかし給ひ、下りまして十市の郡
       の丹生に忌杖刺し給ひ、(品田天皇御御代田五百代奉給也)下りまして巨勢の丹生に忌杖刺し給ひ、
       下りまして伊都郡の町梨の御門代、(計四図一里一坪同二坪同三坪具八段)御田作り給ひて、下り
       まして波多部家多町の字堪梨と云ふ(計五図二里二百十六歩同里五坪二殿六十歩)並びに天の沼田
       と云ふ(十五歩一里四十二坪三百十八歩同里参州三坪四段七十二歩同里州四坪三段七十二歩)御田
       作り給ひ、下りまして忌垣豆に御碓作り、その田の稲を太飯、太酒作り楽び、豊明仕へまつりて、
       上りまして伊勢津美に太まし、下りまして古佐布の所に忌杖刺し給ひ、下りして小都知の峯に太ま
       し、上りまして天野原に忌杖刺し給ひ、下りまして長谷腹に忌杖刺し給ひ、下りまして神野麻国に
       忌杖刺し給ひ、下りまして那賀郡松門の所に太まして、下りまして安締の夏瀬の丹生に杖刺し給ひ、
       下りまして日高郡江川の丹生に杖刺し給ひ、返りまして那賀郡赤穂山の布気と云ふ所に太まし、
      (品田天皇奉給物淡路三原郡白犬伴紀伊国大黒小黒一伴此犬口代赤穂村布気田代美濃国乃三津柏又浜
       木綿奉■)遷り幸して名手村丹生屋の所に夜殿太まし、(品田天皇依奉給御門代道余梨千代棒給也)
       遷り幸して伊都郡佐夜久の宮に太まししかして則ち渋田邨の御門代、御田(廿四図一里七坪一町八
       坪一町九坪六段四坪三殿五坪三殿六坪二段作り給ひて、神賀奈渕の所に楽び、豊明仕へまつり給ふ、
       則ち天野原に上りまし、皇御孫の命の宇閇堪の任に、於土をば下に掘り返し、下土をば於に掘り返
       し、大宮柱太知り立て給ひ、高天の原に知木高知り、朝日なす輝く宮夕日なす光る宮に、常世の宮
       に静りませと申す。
       皇御孫の大御神に依せ奉り給ふ大御門代、太飯、太酒、黒黄千取黄千取、御賽千稲、並に引きて奉
       ると申す、仕へまつる太飯太酒は伏して香んごもせず、取りて咋みんともせず、清浄に仕へまつる
       と申す、皇御孫命の依せ奉り給ふ太飯と田長の御世に済へ仕へ奉りき、馬爪の至らん限み塩末の至
       らん限み、天雲の可皿立つ限み依せ奉り給ふ、遠国をば千尋田久縄をもて懸け依せ給ひ、白雲の退
       ち居、青雲の枯れ引く限い、物代を寄せ奉り給ふ、曳き立てば天と等しく、打ち積めば国と等しく、
       谷古久のさ渡る限み、物代を依せ奉り給ふと申す。」
       
       古文調なうえ、地名もよくわかりませんから、明確に意味を理解するのは難しいのですが、丹生都
       姫がイザナギとイザナミの御子であり、「日の御蔭」であると書かれており、この女神が忌杖を刺
       しながら各地を巡り、田の作り方やお酒の醸し方を教えたようですね。
       
       しかし、「日の御蔭」とはどういう意味なんでしょう?
       一般には「太陽神・天照大神の妹」と解釈されているようですが、「太陽」で「陰」といえば、
      「太陰」。
       つまり、月を意味しますよね。
      「銀金花さき開くよき日」を選んだことを考え合わせても、丹生都姫と月には深い関連がありそうに
       思えますが、いかがでしょうか。
       
       月の女神が杖を刺しながら各地を巡る意味は?
       
       錬金術を知っている方なら、月と水銀の関係を連想するでしょう。
       杖を刺しながら水銀の鉱脈を探り……なんてね(笑)
       
       実際、杖を刺しながら(井戸を掘りあてながら)各地を周ったという伝承は、丹生都姫の山である
       高野山の開拓者・空海にも残っています。
       そして彼は水銀の鉱脈を探っていたのだという説もあるようです。
       
       でも、私はいまいちピンとこないんですよね~……。
       母神ということはつまり、母系の一族だったのではないかと。
       実際、紀州には母子信仰の気配が根強く残っていますし、日本初期でも丹敷戸畔や名草戸畔の女族
       が登場します。
       母系一族の長と水銀。
       ないとは言えないけれど、なんとなくしっくりこないんですよ、私には。
       
       反対ならまったく別の意味も受け取れそうですよね(笑)
       広大な土地を領する男の首長が各地に杖を刺して周るというんなら、
      「あ、その地に愛人がいたのね」
       とも理解できます。
       
       しかし、丹生都姫は女性ですからねぇ……。
       
       ただ、その地に丹生都姫の一族が根を下ろしていたという見方はなんら不自然ではないように思い
       ます。
       そしてその一つが、名草戸畔の一族だったり、丹敷戸畔の一族だったりした可能性は十分ありそう。
       
       ちなみに、「真妻神社」はいくつかあり、そのうち一つはここと、樮川に鎮座する一社。
       樮川の社のそばには、「ホルトの大木」があり、天狗が棲むと伝わっているとか。
       丹生都姫と修験道には深いかかわりがありますね。
       
       いろいろ、いろいろ興味深いです。

home 神社のトップに戻ります back