shigoto

松阪神社

matsuzaka

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御神木の楠






  祭  神:譽田別命 宇迦御魂神
       (合祀)天照皇大神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊 建速須佐之男尊 天御柱命 國御柱命 稚日女命
       栲幡千千姫命 豐受大神 高木大神 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘賣命
       多岐都毘賣命 天棚機姫命 思兼神 天之忍穗耳命 蛭子命 大山祇命 市寸嶋姫命 天之菩卑命
       少彦名命 素兔命 火産神 金山彦命 猿田彦命 安徳天皇 大國主命 事代主命 上筒男命
       中筒男命 底筒男命  
  説  明:ご由緒書きを転載します
      「当社は古来『意悲(おい)神社』と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座
       と伝えられているが、その創立の年代は詳らかでない。室町末期の天正十六(1588)年、藩主
       蒲生飛騨守氏郷あ、飯高郡矢川庄の宵の宮と呼ばれていた丘に築城された時に、城の鎮守社と
       定めて宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社である。氏郷は天正十二(1574)
       年秀吉公から伊勢の松ヶ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その
       時この宵の森(古くは意悲の森)の地の利に着目して、この森に築城を急いだ。又この矢川の
       庄を『松坂』と名付けて、城下町を造り始めた。すなわち、松ヶ島から強制的に寺社や商人を
      『松坂』へ移住させ、近江の日野商人たちも招いた。楽市楽座を実施して誰でも自由に商業を営
       ませた。またその頃まで海岸寄りにあった、伊勢参宮街道を松坂の中央へ引き入れた。天正十
       六年に城が完成し、氏郷は入城して『松坂城』と名付けた。また鎮守社に、新たに武士尊崇の
       神である『正八幡様』を勧請して、祭神として祀り、『八幡宮』と唱えた。
       後世、江戸時代に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松阪であり、近世の商都松坂の反映につい
       ても、蒲生氏郷は、その基をつくったので、松阪の功労者と云える。氏郷は会津若松へ移封と
       なり、文禄四(1595)年古田兵部少輔重勝が、松阪城主となって入場し、更に自らの信仰して
       いる宇迦之御魂神(稲荷さま)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることとなった。その
       後、元和五(1619。江戸初期)年紀州藩徳川頼宣の料地となり、以後明治維新までの二五〇年
       余り松坂城は、紀州藩伊勢領十八万石の要地となり、城代の居城となった。この長い年月、当
       社の神官を務めたのは、飯高氏の子孫と云われる笠因(かさより)家という社家が代々当社の
       社司を務め、雨龍神社も兼務していた。代々の紀州藩主は、松坂着城の都度、必ず当社に参拝
       し、又毎年一月元日には、常に重臣を名代として参拝せられた。
       明治維新となり、明治二年天皇伊勢行幸の砌、名代として北大路殿を参幣使として代参させら
       れた。明治四年には、郷社に列せられ、遠近の人々の尊崇を集めた。明治四十一年には、時の
       政府の方針により全国で神社合祀が行われた時、松阪に於いても市内各所に祀られていた十七
       神社が、当社に合祀せられ社名を『松阪神社』と改名が許可され、今日に及んでいる。
       又現在の当社本殿は、昭和五年の遷座祭の節、伊勢の豊受大神宮の三御殿の中の一つである、
       西宝殿をそのまま御下附を受け、松阪市内を『お木曳き』行事を行って造営した神明造の本殿
       であったものに、千木・鰹魚木・銅板屋根の部分を新しくした由緒ある御本殿であり、飾り金
       具や御錠・御鍵も共にその時拝受したものに、焼き付けの金メッキを施したものである。この
       ような豊受大神宮の西宝殿の拝戴は、全国でも当社だけであり、江戸時代以来、二十年毎に下
       附を受け、昭和五年は第八回目の拝戴であった。又境内中央に高く聳える御神木(楠の大古木)
       は、氏郷が御造営の頃もうすでに、この位置に五百年を経過した大木になっており、現在では
       九百年以上経過した大古木で、天空高く四五百之森に聳えている荘厳さは、じつに美しい風景
       である」
  住  所:三重県松阪市殿町1445
  電話番号:
  ひとこと:式内論社のようですが、蒲生氏郷以前のことはわからない……ということでしょうか?
       それにしても、意悲の森とは意味深な地名。
       代々社司をつとめてきた、笠因家というのも……。
       
       蒲生氏郷は藤原秀郷……マムシ退治の英雄、俵藤太の子孫とも伝えられている、意味深な人物
       です。
       信長の人質となるも、可愛がられたというのは、家康と似てるかもしれません。
       
       いろいろ気になるトピックスがありますね~。

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