祭 神:三穂津姫命 事代主神 説 明:ご由緒書を転記します。 「事代主神:天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大國主 神の第一の御子神様にましまして、天神の系を承けさせられた尊い大神様であ る。夙に父神を御扶けなされて國土の経営産業福祉の開発におつくしになった。 天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって大國主神にこの國を 天つ神に献れとお傳へになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をし ておいでなされたが、父神のお尋ねに対し、畏しこの國は天つ神の御子に奉り 給へと奉答せられ、海中に青柴垣をお作りになり、天逆手を拍っておこもりに なり、大國主神はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて 事代主神は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。 又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚 第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い 神様である。 當神社古傳大祭である四月七日の青柴垣神事、十二月三日の諸手船神事は、悠 遠の昔、わが大神様が大義平和の大精神を以て無窮の國礎を祝福扶翼なされた 高大な御神業を傳承顕現し奉るものである。 三穂津姫命:高天原の高皇産霊神の御姫神にましまして、大國主神の御后神と して、高天原から稲穂を持って御降りになり庶民の食糧として、廣く配り與へ 給うた有難い大神様で、美保といふ地名はこの神の御名にゆかりありと古書は 傳へてゐる。 御神徳:そもそも事代主と申す御神名は事知主の義であって、すべて世の中に 生起するあらゆる事を辧ヘ知しめて是非曲直を判じ邪を避け正に就かしめられ る事の大元を掌り給ふ意味で、平たくいへば人の世の日常の行為や行動を教導 し主宰せられる偉大な御神徳を頌へ奉ったもので、大神様は実に叡智の本躰、 誠(真実、真事)の守神と拝し奉る。又大神様を明神様・ゑびす様と申上げ釣 竿を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影をゑがいて敬ひ親しみ、漁業の祖神、 海上の守護神と仰ぎ、水産海運の御霊験の廣いことはあまねく知られて居る通 りである。そして大神様の大義平和叡智推譲の御神徳、産業福祉の道をお拓き になった御神業、庶民慈育愛撫の御神恩を感謝尊崇し、福徳の神と仰ぐ信仰は 極めて廣く行きわたってゐる。 又當社に古くから傳って居る波剪御幣は大神様の海上守護の神徳に因んで、山 なす狂乱怒涛をも推し切って航行を安泰ならしめ給ふ霊徳を表現した御幣で、 延いて水災火災病難等原因の何たるを問ふことなく人生に起る狂乱障害を祓除 し家内の安全家門の繁栄を守り給ふとしてこれが拝授を願ふ篤信者が多く、そ のあらたかなる霊験は数多い開願報賽の絵馬によっても窺ふことができる。又 経済商業に福運を授け給ふ神としての信仰は、今もいろいろ土俗に残り、商業 の「手拍ち」は天の逆手の故事に起因すると申してゐる。 三穂津姫命は高天原の齋庭の稲穂を持ち降って農耕を進め給ふたので、當社に は古くから御種を受ける信仰があり、安産守護の御神徳は、特に著しい。稲穂 は五殻の第一である米を意味するのは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし 生けるものことごとくの生命力を表現してゐる。従って大神様は人間は云ふに 及ばず一切の生物の生命力を主宰せられる尊い大神様である。故に古人はその 御種について、「これを頂いて帰り時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯でも 粳でも願望のものが出来る。然かのみならず麦でも大豆でも小豆でも出来る。 まことに不可思議な事である」と感嘆してゐるが、田植後には農家の人達の豊 穣祈願のお参りが盛んであり、十二月三日の諸手船神事は一つに「いやほのま つり」ともいひ、豊穣感謝の意味もあってこれまた一般の参拝が頗る多い。 世界的文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハ−ン)はその紀行文の一節に初夏の田 園風景を叙し、美保神社の神札(世にせきふだと申す)が稲田に立てつらねら れて居る状を白羽の矢のやうであると感心し青々とした田の中に白い花が点々 と咲いたやうであるともいひ、この白羽の矢の立って居る処では蛭が繁殖しな いし飢ゑた鳥も害をしないと書いてゐる。これは豊作守護のおかげを端的に言 ひ表はしてゐるものである。 沿革:さて當美保関は前に述べたやうに大神様の御神蹟地であるばかりでなく、 所造天下大神とたたへまつる大國主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎 へになった所であり、又その地理的位置は島根半島の東端出雲國の関門で、北 は隠岐、竹島、欝陵島を経て朝鮮に至り、東は神蹟地、地の御前、沖の御前島 を経て北陸(越の國)、西は九州に通ずる日本海航路の要衝を占め、更に南は 古書に傳へる國引由縁の地弓ケ浜、大山に接し、上代の政治文化経済の中心で あったと考へられる。現に考古学上の遺跡や遺物によってもこれを窺ふことが 出来る。かやうな訳で當神社は非常に古く此所に御鎮座になり奈良時代巳に世 に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇は隠岐御遷幸の砌り神前に 官軍勝利、王道再興を御祈願になったと傳へるが、其後戦乱の世に軍事上、経 済上の理由から群雄の狙ふところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸殿宇を 始めとして市街悉く兵火のため烏有に皈し、吉川廣家これを再興し日本海航路 の発達と共に上下の崇敬を加へ明治十八年には國幣中社御列格の御沙汰を拝し 、更に明治二十一年には叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた。 文化財:現在の御本殿は文化十年の造營であって、大社造の二殿連棟の特殊な 形式で、世に美保造又は比翼大社造等と申し國の重要文化財に指定されてゐる。 御本殿のかかる形式は文書によると天正年間にその痕跡が窺はれるが。現在の 整備せられた構造は文禄五年吉川廣家が朝鮮にあって立願のため御造營をした 時まで遡ることが出来る。拝殿以下は昭和三年の新營である。當神社の御祭神 は鳴物を好ませ給ふと廣く信ぜられて種々の楽器の奉納品が多く、そのうちの 八四六点は美保神社奉納鳴物として、又諸手船神事に用ゐる諸手船二雙及び社 蔵のそりこ舟一雙は古代船舶の遺型を存するものとして共に國の重要有形民俗 文化財に指定され又隠岐、中海沿岸で漁業に使用せられたトモド船及び沖縄の サバニ−は共に県の有形民俗文化財に更に社蔵の古筆手鑑は県の有形文化財に 指定されゐる。」 住 所:島根県松江市美保関町美保関608 電話番号: ひとこと:この神社に着いたのは朝の8時半。 鳥居をくぐった途端、「ドン!」という太鼓の音が聞こえました。 拝殿を見ると、浅木色の袴をつけた神職さんと、巫女さん一人が、何やら神饌 を献じているのが見えます。 献饌が終わると祝詞の奏上。 二つありました。 一つ目は大変長く、「高天原に神坐ります」から始まるもので、大祓祝詞と似 た箇所がありました。 そして二つ目は、「美保関に神坐ります 事代主大神」から始まり、漁業の安 全、生活の安全を祈るものだったようです。 ハーンの愛した美保の関。 そしてもちろん、事代主の愛した場所でもあるここ。 しかしその場所は、高天原の神軍による侵略戦争の場となり、事代主最期の地 ともなってしまいました。 逆手を打って浪間に沈んだという事代主の無念を知ってか知らずか、私が参拝 した日、海は抜けるように青く、のどか〜な波をたゆたわせていました(^^ゞ