祭 神:伊弉諾尊 伊弉册尊 説 明:ご由緒から引用します 「当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は 甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向かわれる途中当山に登られました。 尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになら れたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であるこ とを祈られました。これが当社の創まりであります。 その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美し く連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわり ました。 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮 には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。 又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられて います。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。 天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、 勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈っ てお宮の本地堂としました。 こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続 きました。 三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇 敬もあり、明暦年間、南部藩主山城守奉納の洪鐘は今も時を告げています。又、新田開発にカを尽し た関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。 東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・ 義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、 社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。 後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い 年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。 後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後 奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験 の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもっ て遇れました。 現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。やがて、享保 5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御 眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治 の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。」 住 所:埼玉県秩父市三峰298-1 電話番号:0494-55-0241 ひとこと:日本書紀欽明天皇条には、狼を助けた秦大津父という人物が登場します。 伊勢へ商いへ行き、変える途中、山の中でに引きの大神が噛み合って血まみれになったのを見付ける んですね。 そこで、「あなた方は尊い神なのになぜこんな喧嘩をなさるのですか?今猟師に出会ったら、お二方 とも捉えられてしまいますよ」と諫めたのだとか。 すると二匹は争いをやめたので、血を拭き、洗って逃がしたそうです。 狼は「大口真神」とも呼ばれ、神の眷属、あるいは神そのもののように扱われてきました。 この神社も、本来は狼を祀っていたのでは……、あるいは、狩場明神のように、狼をよく使役する猟 師とか。 修験者にとって狼はなじみの深い動物だったのではないかな。 この山も修験の山だったでしょうし、もう少し狼にフィーチャーしてあげてください。