祭 神:洩矢神 説 明:ご由緒書から引用します 「1.縁起 諏訪大明神画詞(えことば)延文元年(1356)によれば昔諏訪には先住の国津神 の洩矢神がおられた。そこへ建御名方命(諏訪明神)が侵入されようとした。川岸の 地で洩矢神は鉄の輪を建御名方命は藤の枝を持って争ったが洩矢神は命の稜威に服し た。その時建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処その枝は根づいて繁茂して 藤洲羽の森となったのが現在の荒神塚、藤島神社(三沢区)である。洩矢神は建御名 方命に服属しその最高の職神長官となり建御名方命を助けて諏訪の地の開発につくさ れた。氏子は洩矢神の御神徳をたたえるために天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地 に社を建て洩矢神を祀った。これが洩矢神社の始めである。 1.神裔 洩矢神には1男1女があり女は多満留姫といい建御名方命の第2子出早雄命に嫁し、 男は守宅神といいその子孫は茅野市宮川高部(たかべ)に住み神長官を代々世襲した。 1.藩主崇敬 洩矢神社の藤と三沢区の藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程繁茂していた寛 文年中(1660から1773)諏訪藩主が蛍見物のとき邪魔になると云うことで切 り払うことを命じたが神罰を恐れて誰一人伐る者がないその時新屋敷の嘉右衛門とい う力自慢の男が自分に山役二人の役料をくださるなら伐りますと申し出たので伐らせ た処間もなく気がおかしくなってしまった藩主には祟があったので新たに祠を城内で 造って奉納することにした処大きすぎて大手門を出ることができないやむなく少し縮 めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。その時現在地に遷座したその後は 藩主の崇敬があつく上田高1石9斗4升1合3勺の神事免が奉られ例祭を藩主が行な ったが明治4年廃藩と共に神事免を上地し例祭は氏子で行なうようになった。 1.神徳 祈願に対しては真に霊験あらたかで御神徳はふかく厚く諸々の祈願を篭むれば霊験は 立ちどころに表れ特に産婦などが底抜けの柄杓を献納し祈願すれば安産間違いなしと いわれている。 」 住 所:長野県岡谷市川岸東1丁目12 電話番号: ひとこと:鉄の輪と藤の枝っていうのがなんとも気になります。 諏訪大社の神は生贄を要求する神ですよね。 なぜ諏訪の人々は、神が生贄を求めると思ったのでしょう? ……彼らが肉食を享受していたからだと考えるのが、自然じゃないかなと思うんです よ。自分たちが肉を喜んで食べるんなら、神も「肉」を喜ばれるんじゃないかと思っ て当然ですよね? ということは、諏訪の……少なくとも先住民は、狩猟民族だったのではないか、なら ば、縄文系だったんじゃないかと思うわけです。 彼らを服せしめたのは、少なくとも彼らより進んだ文化を持った人々、弥生人だった のではないかな、と。 一般的に、鉄器を持ってきたのは弥生人ではないかと言われてます。 縄文時代にも野だたらがあったと言われてますが、大した鉄器はできなかろうと。 ならば、鉄の輪ってなんなんでしょうね? 藤の枝は? 洩矢神が象徴する諏訪の先住民たちは「ミシャグチ」と呼ばれる神様を信仰してたっ て言われてますよね。 それを暗喩するのが「鉄の輪」とか? いろいろ想像しちゃいます。