祭 神:多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 田寸津比賣命 説 明:境内案内板から、由来を引用します 「宗像神社の創建については、天武天皇の御代(西暦六七二~六八五)、天皇に仕えていた筑前の胸 肩徳善という者の娘で尼子娘が召されて妃となり、高市皇子をお産みになった。そして皇子は外戚 の氏神として宗像の神をこの地に勧請したと伝えられている。元慶余年(西暦八八〇)官社に列し、 次いで筑前の本社に準ずる大社となった。神階従一位で、大宝令には七十四町の位田を領し、藤原 氏の尊崇も篤かった。 当初、鳥見山中腹にあった宗像神社は、興国二年(西暦一三四一)兵火で焼失し、神域は興福寺の 支配下となり、春日神社とその若宮を祭祀するに至った。その間、宗像三神は三か所に祭り継がれ ていた。嘉永七年(一八五四)、国学者の鈴木重胤が宗像三神の衰微をなげき、宗像神社再興に尽 力し、安政六年(一八五九)改めて宗像本社の神霊を迎え、万延元年(一八六〇)社殿が完成した。 その後、春日神社の社号を廃して宗像神社とし、明治二一年改築の際にはじめて現在のごとく、宗 像の神を中央の市とした。末社には六社神社、琴平神社、子供神社(鬼子母神)がある」 「宗像神社の創建は、天武天皇の皇子の高市皇子とされる。母は筑前の宗像徳善の娘の尼子娘で、 母方の氏神を祀り、創建したと伝えられている。 元慶四年官社に列した後、神階従一位となり、筑前の本社に準ずる大社となった。 当初鳥見山中腹にあったが、興国二年兵火で焼失し、興福寺の支配下となり、春日神社とその 若宮を祭祀するに至った。 その間、宗像三神は三ヵ所の祀り継がれたが、国学者の鈴木重胤の再興への尽力により、万延 元年社殿が完成した。 その後春日神社の社号を廃し、宗像神社とし、明治二十一年、現在のごとく宗像の神を中央の 市とした」 住 所:奈良県桜井市外山818 電話番号: ひとこと:高市皇子は実力者だったようで、壬申の乱でも活躍し、太政大臣にまで上り詰めた方です。 母の位を考えれば、大出世かもしれません。 そんな方が、故郷の氏神をわざわざ勧請されたんだなぁと思うと、ちょっと嬉しくなります。 糟糠の妻をないがしろにしない感じがするっていうかね(#^.^#) 南北朝の戦いで焼けてるんですね……。 高市皇子直々に祀った神社を焼くとはね。 んでもって、なぜか多紀理毘賣命だけが「比」じゃなく「毘」なんですよ。 前回から数年経ってお参りしなおしたんですが、案内板は変わったようなのに、やっぱり多紀理毘 賣命だけが「比」じゃなく「毘」 なぜだ?!