祭 神:豊玉姫命 (配祀)素盞嗚命 天御中主神 十二大神 説 明:元鍋ケ森神社にあった案内板を転載します。 「この谷を右上の方に登ること4KMほどの川床に、大小12ケの鍋の底のような穴があります。昔 からこの穴に触れると神罰があると言われ、村人たちは1051年この地に宮柱太しく立てて祠り はじめたと言われております。 その神罰とは、雷にうたれたり、大洪水を蒙るというところから、いつしか雨乞いの神様とし て、近郷近在の信仰を集め、旱魃の年には播州一円はもとより、美作因幡あたりからも沢山の 農家の人々が詣っておりました。 昔は立派な構えのお宮でしたが、大正六年に西河内部落の中の氏神様と一緒にまつることとな り、社や鳥居はそこに遷され、その跡に石碑を建てました。このなべ底のような穴は、ポット ホールとか甌穴とか呼ばれ、地質学的には火山噴火の際に流れ出た溶岩の流れの中に、風化し やすい、あるいは浸食されやすい岩が飛び込んで、それが長い年月のうちに風化したり浸食さ れたりしてできたものとされています」 ちくさええとこネッ!とさんの「しそうの逸話 4:鍋ケ森」を転記します。 「鍋ヶ森伝説 むかし、昔。いまからいうと九百数十年も前のこと。千草の荘、西河内の里(千種町西河内) に佐藤盛唯という人が住んでいた。ある日の夜、夢路に白髪で長いヒゲを伸ばした老翁が現れ 『わしは、この奥の鍋ヶ森に住む大蛇じゃ。恥ずかしいことだが身を隠すことなく昇天した。す まんことだが亡骸を葬ってくれ。そうしてくれたら、この世が続く限り晴雨自在、五穀豊穣う たがいなし」とのご託宣があった。 盛唯は夜の明けるのを待って村の長を訪ね、夢路のご託宣を告げた。村の長は、さっそく里人 たちを集めてご託宣を伝えた上、相談。鍋ケ森へ行き、大蛇の亡骸を葬ることを決めた。あく る日、里人たちは険しい山を踏み分けて、やっとのことで鍋ケ森へ。手分けして大蛇の亡骸を 捜していたところ、谷川に出来た甌穴の直ぐ近くの森の中に横たわっている亡骸を見つけた。 しばらく休んだあと、みんなが力を合わせて、大きくて深い穴を掘り、手厚く亡骸を葬り、小 さなお社を建てた。 それ以来、このお社にぬかづき旱魃のとき、雨乞いをすれば、たちまち雨が降り。長雨が続い たとき、晴天を祈れば、たちまち雲が割れ、空が晴れわたったという。この、あらたかな霊験 は里人たちを大いに喜ばせたと伝えられている。 地元の人の話しによると、雨乞いのためには『鍋ケ森さんが踊りが好き』というので、里人た ちが社前で踊りを奉納。そのあと神官を中心に雨乞いをしたそうだ。いまから五十数年前まで は、近在はもとより、播州、但馬の各地はじめ岡山、鳥取両県内からも雨乞いのため鍋ケ森の お社に、おまいりする人たちが多かった。他所の人たちは社前で神官に雨乞い祈願をしてもら った後、お灯明の火を火ナワに移して持ち帰り、これを火種にして灯明をあげ、地域の人たち がそろって雨乞い祈願をするのが例だったとのこと。(2001年11月掲載) 住 所:兵庫県宍粟市千種町西河内352 電話番号: ひとこと:当神社は雨乞いの霊験で有名ですが、私はむしろ、金屋子神の伝説と関係がないのかと思って いました。 というのも、金屋子神は、播磨国志相郡岩鍋に舞い降りたと、安来市鎮座の金屋子神社に伝わ っているからです。 同じ宍粟の中で「鍋」ですから、なにかしら関係があるのではないか、と。 もしそうならば、たたらと蛇なので、ヤマタノオロチとも関わってくるような気がします。