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祭 神:誉田別尊 多紀里毘売命 息長足姫命 説 明:ご由緒書を転載します。 「長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上 にそって営まれた古い集落です。長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社は、品陀和気命(応神天皇)、 息長足姫命、多紀理昆賣命の三神を祀っています。神社の北方には、字、意伎宮屋敷、引場と呼ばれた所があり、 神社が焼失したため現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として賽神社、愛宕神社、稲荷神社、 水神社、琴毘羅神社があります。 長田の村内には、五基の『おかげ燈籠』が残されています。この燈籠は、江戸時代に盛んに行われた、伊勢神宮参 宮の記念物で、ほぼ六十年おきに遷宮が行われる年の参宮は『おかげ年』といわれ、平年より一層のご利益がある ということから、慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)、享保八年(一七二三)、明和八年(一七七一)、 文政十三年(一八三〇)と六回にわたって、各地集団でおかげ参りが行われました。おかげ参りがひとたび起ると、 父母や雇主に無断で参宮する抜け参りも多く、とくに文政のおかげ参りては、『おかげ踊り』とよばれる熱狂的な 群集の乱舞が関西をを中心に広がりました。またおかげ踊りは幕末にあたる慶応三年(一八六七)の『ええじゃない か』踊りの騒動へとつながっていました。 おかげ燈籠は、市内の加納、菱江、荒本、箕輪にありますが、五基も残っているのは、ここ長田だけてす。天保二 年(一八三一)に建てられた。慶応三年(一八六七)丁卯十二月に建てられた。文化財として大切に守って行きたいも のです。 生駒山の西にある大阪は、太古の昔から約二〇〇〇年以前まで海であった。その後、長年の間、山の土砂が次第に 流れて堆積し、海の湖、潟、渕となり、遂に池となり、現在の陸地に変わって行った。従って河内には、海に関係 の深い地名が数多く、また鯨をはじめ、海水魚、淡水魚の骨が各所で発掘されている。長田の昔は寒村であったが 布施市に編入(一九三七)年、次にまた東大阪市(一九六七)年となった。現今では大阪の西から東へ中央大通りが地 下鉄として延びて長田に入り、奈良からも近畿日本鉄道が山を越えて長田に直結し、今や最も近代化された重要な 拠点となりつつある。 長田神社は平安朝には、延喜式内社に列格されて意岐部神社と称し、広大な境内を有した豪壮な神社であった。そ の後、御社殿は焼失したので現在の地に遷御された。 今の神社の近く東北の地に、意岐宮屋敷、或いは射場の丁と云う字があり、昔を物語っている。 神名帳本社、誉田別尊、多紀里毘売命、息長足姫命 末社(1)賽神社 八衛比古命、八街比賣命 (2)稲荷神社、宇賀御魂神 (3)愛宕神社、火迦具土神、水神社、水分神、琴毘羅神社、事代主神 (4)巳神社、龍王明神 時代の推移と共に今や長田町は有名となり、発展の一途を辿っている。茲に長田神社の御神恩を感謝し、その霊験 あらたかな御徳を顕彰し、限りない向上進歩を願って已まない。 平成十四年二月二十一日 長田神社宮司 栗山善雄 清嘱 総代 杉山瀧藏 敬書」 住 所:大阪府東大阪市長田2丁目8‐18 電話番号: ひとこと:なぜこの御祭神が祀られているのでしょうね。応神天皇と神功皇后はわかるのですが、そこにタギリヒメの名が入 ているのが、ちょっと不思議な気がします。 この神社で、河内国の式内社はすべて紹介終わり。 記念すべき神社なのです。