祭 神:豐玉毘賣命 説 明:案内板を転載します。 「ご祭神は三人の姫を連れ、桃の木船にご乗船、能登国桃ケ浦(百浦)にご入港。当時日本海の入り 江(旧福野潟)を遡り、神代を経て米浜で下船、各地に立ち寄り、遂に安津見のおたびへご到着。 窟居し良民を苦しめる土賊を平定。三姫をこの地に留め、人々に建築法を教授、田畑の開発を奨励。 人びと偉大なご神徳を称え、奈良時代文武天皇大宝元年(701)初秋、樹木繁茂古色蒼然とした火の 宮山の頂上大御前に神社を創建。陵と伝えられる円墳もある。 奈良・平安時代豪壮な七堂伽藍の別当寺をご造営、しかし戦国の乱世に遭偶悪く移転、廃絶。専念 寺はその難を逃れた寺院と伝承。本神社の別三井あ・摂社・末社は七社、頻発する兵火により灰燼 に帰し、少彦名神社(細川家薬師堂)一社のみとなる。 朝廷のご信任、武家のご崇敬厚く、平安時代元暦一年(1184)高倉天皇より正四位下のご神位下賜。 執権北条、主語畠山、群主土田、領主土方、藩主前田各氏の守護神、祈願処と定め、社殿の営繕、 社領や神祭具等を奉納。 江戸時代尤隆盛を極め、信者や参拝者増加。多数の神主や社僧祭典を厳正に斎行。田中氏惣行司と 称し、代々奉任。社殿、鳥居の再建、神輿の新調。 明治初年、村者、神饌幣帛供進社に指定。 昭和十一年山麓に新本殿をご造営、ご遷座慶賀祭盛大に斎行。同二十一年氏子待望の郷社に昇格。 本神社ご壮健依頼長き歳月、氏子、崇敬者により護持、ご神恩に感謝、御弥栄を祈願し、社殿の営 繕、境内の整備、神祭具の奉納等今に継承されている。 第四十五代宮司 田中外余成 撰文」 「奈豆美比咩神社祭神伝説の地 われら住民が、おたびと尊称するこの地は、上古、安曇氏の祖神、豊玉比咩が、来臨せられし処な り、と社伝は伝えている。 西北方に望む宮山大御前は、もとの御本殿跡地であることから、祭礼の神輿渡御に当たっては、ま ず最初にこの地に渡御し、大御前の方向に神輿を据え、神祭をつとめ、その後氏子内を渡御する慣 行が、今も継承されている。 巨大な神木の椨の老株が、臥竜の状を呈しているのを始め、姫榊・欅・杉など長い歴史を物語って いる。 奈豆美比咩神社は、古く延喜の式内に名をとどめ、この地もまた旧石造鳥居など、貴重な遺構があ り、祭神伝説地として、神跡深遠であり、昭和四十八年十月にじゅうさんにち、志賀町文化財史跡 に指定された。 われら住民、こぞってこの地を貴重な神域として、顕彰するものである。 奈豆美比咩神社宮司 田中外余成 謹書」 住 所:石川県羽咋郡志賀町安津見46‐97甲 電話番号: ひとこと:安曇氏は、低湿地を干拓するのに技術力を発揮した氏族だとされます。 その「姫」が賊を平らげるってのが、凛々しくていいですよね。 おたびは田園地帯の中にあり、探すのがけっこう大変でしたが、ウロウロしてたら草刈り作業中の おじさんが、「声をかけようか、かけまいか」というようにちらちらご覧になってました(笑) なので当然、「すみません。おたびには、石だとかそういった拝む対象はあるんでしょうか?」っ て声をかけましたよ。 答えは「木があるって言われてるけどねぇ」だそうです。 石川県の神社って、なんかいいなぁ(^^)/