祭 神:日本武尊 弟橘媛命 建貝児王 説 明:境内案内板を引用します 「能褒野王塚古墳 能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀の築造とみられる北勢 地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となって いましたが、明治12年(1879)に内務省によって能褒野王塚古墳がヤマトタケル の墓と定められました。 能褒野神社 能褒野御墓が定められると、歯かに隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高ま り、明治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オ トタチバナヒメ(弟橘媛)、タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、 明治41年(1911)には、式内社の県主神社や那久志里神社などが合祀されていま す。」 住 所:三重県亀山市田村町 電話番号: ひとこと:この神社の前には「県主神社」と書かれた石標が建てられていましたし、歴史は浅くて も、意味の深い場所と言えるんじゃないかと思います。 建見児玉(武卵王)は日本武尊の御子ではありますが、母親は弟橘媛じゃなくて吉備穴 戸武媛(きびのあなとのたけひめ)なんですよね。 なぜこの神がここに祭られてるのかはなぞ。 讃岐綾君の祖となっており、香川県では「讃留王」として伝説が残っていますから、讃 岐とは関係が深いと思うんですけど。 ちなみに、日本武尊が、讃岐の南海を荒らした大魚を退治した際、生まれたのがタケカ イコ(武殻)という話なのですが、その後、讃岐を守るために残ったので、「讃留」の 名で呼ばれたのかもしれません。 母は「吉備」だし、伊勢とどんな関係があるんでしょうね? あるいは、県主神社や那久志里神社の祭神だったとか? なぞです。