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野里住吉神社

nosatosumiyoshi




  祭  神:表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后 
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「永徳二年(1382年)足利三代将軍義満の創建と伝えられている野里住吉神
       社の境内の片隅にある『瀧の池』の跡地に乙女塚が建てられている。それには
       悲しい物語りが伝えられている。
       中津川に面した昔の野里は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け
       暮れで、近隣の村人たちは野里のことを『泣き村』と呼んでいた。
       この村を救う為には、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよとの託宣があ
       り、村を救う一念から村人の総意でこれを実行していた。
       人身御供の子女は毎年一月二十日丑三つ時に唐櫃に入れられて神社に運ばれ放
       置された。
       丁度七年目の行事を準備している時、一人の武士が立寄り、村人からことの詳
       細を聞き、『神は人を救うもので人間を犠牲にすることは神の思し召しではな
       い』と乙女の身代わりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた。
       翌朝、そこには武士の姿はなく、大きな『狒狒』が深手を負い絶命していた。
       この武士こそ当時、武者修行中の岩見重太郎であると伝えられている。村では
       この後安泰の日々を送るようになった。これを後世に長く伝えるため、同じ形
       式で同じ一月二十日に村の災厄除けの祭りをして他に例を見ない記載が行われ、
       今日に至ったものである。
       明治四十年より二月二十日に改められた。
       この一夜官女の祭は昭和四十七年三月三十一日付で大阪府文化財保護委員会よ
       り重要民族資料として指定されている。
       この地は古戦場としても有名であり、享禄四年六月四日、細川常植と細川晴元
       が中津川で戦った時、常植方の本陣が当社であったという。
       現在の野里本通が旧中津川の右岸に当り、摂津の大物崩という戦がこれである。」
      「野里の渡し
       1889(明治22)年からの改修工事によって、淀川は流路が大きく変わり
       ました。それまで野里住吉神社の東側は淀川に面していました。現在境内の南
       側に残る土手は、当時の堤防のなごりです。
       野里の渡しは、大阪と尼崎を結ぶ大和田街道に設けられた渡しで、野里住吉神
       社のやや北側にありました。1876(明治9)年に木製の橋が架けられるま
       では、大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑わっていました。
       一説には室町時代に野里村が開発された時に、代官の堀江彦左衛門によって作
       られたといわれています。
       また、江戸時代の地誌である『摂津志』・『摂津名所図会』には、『日本書紀』
       に見える『かしわの渡し』が、野里の渡しであると記されています。」
  住  所:大阪府大阪市西淀川区野里1−15−12
  電話番号:06−6471−0277
  ひとこと:池田弥三郎氏の「性の民俗誌(講談社学術文庫)」を読みました。

      「遊女の発生」とタイトルされた中で、「門口に人が来て立ちさえすれば、夜中
       でも自分のことは少しも考えないで出ていって、男に逢うた」
       という「末の珠名」について、

      「男にふれずして一生を終わったと伝える女性に比べると、両極端にいる女性の
       ようであるが、実は女性の生活にとって、これは両極端ではなく、同じ一人の
       生活にあることだった」とあったんですね。

       わかります?

       つまり、誰とでも寝る女と、一生処女のまま死んだ(多くは自殺した)とされ
       る、真間の手児奈のような女性は、一人の女性のある側面と別の側面である。
       というわけです。

       おふざけにならないでくださいざます!!

       ・・・そうおっしゃるのも無理はありません。

       それに対する池田氏の答えは、こうです。
       著作権の問題がありそうなんで、要約しますと、

      「神の嫁としての資格のあることが一人前の女性であった。
       つまり、一人前の女性であるということは、神にたいしては、常に逢わねばな
       らなかった。
       反面、神の嫁であるということは、人間の男性を拒否せねばならぬということ
       であった。」

       つまり、人間の男を拒否し続けた「神の嫁」は、反面、神に対しては、いつで
       もどこでも寝なくてはいけなかった、ということです。

       神とは・・・、こう言ってしまうのはいけないかもしれませんが、定義の曖昧
       なものだと思います。

       例えば、漂着物を「えびす」と呼びます。
       これは、遠く海の彼方からやってきたものを、憧れを持って眺めた過去からの
       習慣かもしれませんし、もっと別の意味があったかもしれません。

       客人を「神」として歓待する風俗もあったようですから・・・。

       同じ、「性の民俗誌」には、
       ある先生が、ある村に赴任することになり、途中で民家に泊めてもらったら、
       その家の娘さんが細々と世話を焼いてくれ、夜も部屋から去らなかった・・・
       などという話しが紹介されています。

       これは、「お客様を歓待しよう」という意味もあったでしょうし、往古は、村
       の中での婚姻が続きすぎたので、他の国からやってくる新しい遺伝子を歓迎し
       た・・・なんていう意味もあったんでしょう。

       つまり、「客人」=「神」と考えてしまえば、「誰とでも寝る女性」=「神の
       嫁」という見方も、強ち無理のあるものではなくなってくるわけです。

       一夜官女の伝承は、岩見重太郎による化け物退治で、「物語」として完成され
       てしまっています。

       でも、本来の姿は、どうだったのでしょう?

       キーワードは、「一夜」だと思うのです。

       災害から村を守るために、もしくは、神からの恩恵を得るために、女性を神の
       嫁として出す・・・そういう発想は、特別なものではないように思います。

       伊勢の斎宮も・・・、日本書紀によれば、その端緒は、災害でも恩恵を願った
       というものでもありませんが・・・、発想としては、似たものではないかと思
       います。       

       社長には秘書が付き物だし、アダムにはエバが、伊邪那岐神には伊邪那美神が
       必要だ、そう考えるのは、不自然なことじゃないでしょう。

       ただ、それならば、「一夜」にする必要があったのでしょうか。
       私は、これにこそ不自然を感じるのですが・・・。

       ここで思い出すのが、先に述べた、「泊めてもらった家で娘さんが夜も世話を
       してくれた」という話しです。

       これは、泊めてもらった家でのことだから、当然「一夜」のこと。

       つまり、「一夜官女」の夫は・・・この神は・・・、客神なのではないかと考
       えれば、すごく納得がいくのですが・・・。

       例えば、ナイルの氾濫のように、毎年、一年に一度、「野里の渡し」が大きく
       乱れることがあり、その日、「神がやってきた」と見た、とか。

       もしくは、今のお盆のように、年に一度ないし二度、祖霊が帰ってくると考え
       られていたとか。

       そういう「特別の神」を歓待するための女性が、「一夜官女」ではないか、と
       思えるのです。

       そうであれば、乙女塚の悲しい物語は、もっと明るく楽しげなものになるでし
       ょうね。

       私は、悲しい話は、あまり好まないのです(笑)

       野里住吉神社の一夜官女祭レポートはこちらをどうぞ。

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