祭 神:大綿津見命 須佐之男命 説 明:境内案内板を転記します。 「御神徳: 海上航行の安全・漁業反映 家内の安全・病気の平癒・学業成就・安産等等 ご由緒: 今から千八百十年ほど前、第十四代仲哀天皇の二年に、神功皇后、西国への 御下向の際、この浦に御寄泊になり、大綿津見命を祀られ、海路の安全を祈 られたことに始まる。 鞆祇園宮(須佐之男命)の鎮座起源年代は不詳 旧社格 国幣小社 縁起式内社」 「この神社は『大綿津見命』を祀る渡守神社と『須佐之男命』を祀る祇園宮が いっしょにまつられています。 平安時代につくられた『延喜式』という法令にも記載されている古い神社で す。渡守神社には神功皇后が武具『鞆』を奉納した伝説があり、海上安全祈 願の神社です。 また祇園宮は無病息災を祈願する神社です。そして、京都の祇園宮・八坂神 社はこの祇園宮から移されたともいわれております。『お弓神事』(旧暦1 月7日に近い日曜日)と『お手火神事』(旧暦6月7日に近い土曜日)は、 福知山市無形民族文化財に指定されています。」 住 所:広島県福山市鞆町後地1225 電話番号: ひとこと:大綿津見の神は海の神様です。 海のことを「わだつみ」と言いますよね? 大綿津見の神は、「おおわたつみのかみ」と読みます。 どっちが先かはわかりませんが、多分、神様の名前が先でしょう。 というのも、山の神に、「大山津見(おおやまつみ)」という神様がおられ るからです。 多分、海の神である大綿津見神と、山の神である大山津見神はペアなのでし ょう。 さて、大山津見神は、別表記では、大山祇神・大山積神となります。 そして、その神は、伊予国風土記逸文によれば、「和多志の大神」つまり、 「渡しの大神」という別名があった、となっています。 む?むむむ?? もしかして・・・ペアじゃなくて、別名同神??? 日本書紀一書(第六)によれば、この二柱の神々は、等しく伊奘諾尊・伊奘 冉尊が協力して生み出した神々であるとされています。 ただし、その後、伊奘諾尊が黄泉から帰ってきて、底津少童命(そこつわた つみのみこと)・中津少童命(なかつわたつみのみこと)・表津少童命(う わつわたつみのみこと)を一人で生み出していますから、ちょっと複雑。 古事記によれば、大綿津見神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の子。 大山津見神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の子である速秋津日子・速秋津比売 の子であるとなっています。 つまり、大綿津見神と大山津見神は、伯父(母)と甥(姪)の関係。 それぞれ、たくさんの兄弟がいますから、伯父と甥の関係となると、その関 係は、かなり希薄な感じになってしまいます。 でも、「海幸彦・山幸彦」の話もあるとおり、海と山は対と考えるのは、別 に不自然じゃないこと。 しかも、伊予と安芸という、近い場所で、御互いに同じ「渡守」という役割 を担っておられる。 これは、偶然ではないように思います。 全く関係がないかもしれませんが、バリでは、海は邪悪なもの。山は聖なる もの、と考えられていたそうです。 現地人ガイドさん曰く、 「バリは島国だから、敵は海から攻めてくる。山は守りを固めるのに良い場所」 という理由らしいのですが、それは、同じ島国である日本でも同じことでは ないでしょうか? 確かに、山幸彦と海幸彦の昔話では、山幸彦が善玉。海幸彦が悪玉として描 かれていますし・・・。 大体、この昔話の原型は、ポリネシアにあると言われてますよね。 であるならば、日本神話に、「海は邪であり山は聖である」という考え方が 反映している可能性はあります。 そう考えた場合。 つまり、大綿津見命=海を「邪を運んでくる神である」と考えた場合。 この大綿津見命を、人々はどういう気持で祀ったのでしょうか? 「どうか、敵を運んでこないでくださいね〜」 となるでしょうね。 「渡守」とは、 渡ってくる敵から守ってください。 という意味だという風に考えられます。 反対に、大山津見命が「渡しの大神」と呼ばれたのは、「渡ってくる者達に 勝利させてください。 ・・・という意味になるでしょうか? う〜〜〜ん。 でもだって、大山津見命は、伊予の嶋に祭られてるんですからねぇ? ここは素直に、「航海の安全を守ってください」と祈ったと考えるほうがど うしても自然です。 このあたりの事情をよくよく見ますと、 島に、大「山」津見命が。 海岸部に、大「綿」津見命が。 それぞれ祀られているわけで・・・。 この二つの神様が御互いに「渡し守り」として、呼応しあってると考える方 が、やはり自然なのですよね。 そもそも、神功皇后は、「航海安全」を祈ってこの神を祀られたわけで、敵 の撃退を祈ってこの神を祀られたわけではありませんし。 ちなみに日本書紀では、神功皇后は、 南海道→紀伊(徳勒津宮)→穴門(山口)→豊浦津(山口)→渟田門(福井) →豊浦津 という風に移動されてます。 瀬戸内は和歌山から山口へ移動するとき、通られたでしょうね。 ですから、この地に神功皇后が、神を祀ったというのは、なんら不自然さを 感じさせるものではありません。 しかし、神功皇后は、海の神との関係がとても深い。 この地においても、海の神を祭ってはいますが、山の神を祭ったとはされて いません。 しかし、山と海の「津見」神は、それぞれ「渡しの大神」と呼ばれているの です。 神功皇后は、「山の神」を祀らなかったのでしょうか? それとも、祀ったけれども、それは「内緒のこと」なのでしょうか? 正直、全くわかりません。 わかりませんが、神功皇后と山の神について。 意外な組み合わせですが、だからこそ、注目してみる価値はあるかもしれな いですね。