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意賀美神社

ogamiizumisano




  祭  神:高龗神
  説  明:ご由緒書を転記します。
      「御祭神
      『大阪府史蹟名勝天然記念物』には、『祭神は神祇賓典に伊奘諾尊、式
       社考に素盞鳴尊とするも、神名帳考証・神祇志の諸書に、龍神とし社
       傳亦えに同じ』としている。
       社名
       九條家本も、金剛寺本も『意賀美(おかみ)』とあるが『意』を『イ』
       と誤って『イガミ』と呼ぶことも現にある。これは大阪府下の他にも
       例がある。また『オガミ』と濁って発音するのが現在の呼称である。
      『大阪府誌』『大阪府全誌』『大阪府史蹟名勝天然記念物』ともに武塔
       山の麓にあるので『武塔ノ天神』と俗称すると述べている。  
       延喜式の古社ながら、創建の年月は未詳である。社傳によると、古は
       社司十軒あり、年長者を推して祭主としたとある。社地はかって上之
       郷村字布都の山中にあったが、天正年間に焼失したといふ。末社には、
       奥神社・大国神社・堂ケ谷神社がある。その中堂ケ谷神社は、字堂ケ
       谷(現在の龍ノ池近く)にあって、もと「奥ノ院」と称したが、のち
       当社に移転せられたのである。意賀美神社は、雨を掌る神として崇敬
       され、明治五年村社となり、同四十年神饌幣帛供進社に列し、同四十
       一年六月四日字池尻の村社若宮神社・字正法寺の村社彌栄神社を合祀
       した。さらに大正十四年七月一日郷社に昇格した。」
  住  所:大阪府泉佐野市上之郷45
  電話番号:0724−68−0540
  ひとこと:泉州は、気候風土の関係で、昔から雨が少なかったのだそうです。
       そのためか、地図を見ていても、溜池だらけであることに気付きます。
       そして、雨乞いの御祭も盛んに行われていたようであります。

       意賀美神社は、いわずとしれた、雨神様のお社。
       同じ社名の神社が泉州には複数存在します。

       また、泉州には、雷様が落ちてきたという民話が散見されます。
       私は、これは、泉州の地形が、雷を呼びやすいのかと思っていました
       が、雨不足の土地なのですから、雷を捕まえることにより、雨を降ら
       そうと考えたのかもしれません。

       泉州には、「牛神」と呼ばれる、塚とも石碑ともつかない「崇物」が
       あちらこちらにあります。
       これも、はっきりはしないのですが、やはり雨乞いに関係が深いよう
       です。

       牛は雨の神様への供物とされることも多かったでしょうから、それも
       頷ける話ですね。

       しかし・・・しかし、です。
      「泉州」「雷」「牛」
       というキーワードで、何か思い出しません?

       そう、菅原道真公なんですよね。
       菅原道真公の荘園は泉州にありました。
       ですから、泉州には「菅原神社」が複数あります。

       菅原道真公は死後雷神となられました。

       そして、菅原道真公を祀る天満宮では、必ずといっていいほど、牛像
       が設置されてますね。

       私は、この泉州には、菅原道真公を紐解く大きなキーワードがある、
       と思ってるのですが、それが何かはよくわかりません。

       さて、この神社の御由緒に、かなり興味を惹かれる箇所があります。

      「武塔山の麓にあるので『武塔ノ天神』と俗称すると述べている」
       という一文です。

       武塔の天神といえば、素盞鳴尊の別名ともされる厄神ではありません
       か。

       備後国風土記逸文によると、
      「備後の国の風土記にいう、
       疫隈の国社。昔、北の海においでになった武塔の神が、南の海の神の
       女子を与波比(よばひ)に出て行かれたところが、日が暮れた。その
       所に将来兄弟の二人が住んでいた。兄の蘇民将来はひどく貧しく、弟
       の将来は富み、家と倉が一百あった。ここに武塔の神は宿を借りたが、
       惜しんで貸さなかった。兄の蘇民将来はお貸し申し上げた。そして粟
       柄をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。さて終わって
       お出ましになり、数年たって八柱の子供をつれて還って来て仰せられ
       て、『私は将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に在宅してい
       るか』と問うた。蘇民将来は答えて申し上げた。『私の娘とこの妻が
       おります』と。そこで仰せられるには、『茅の輪を腰の上に着けさせ
       よ』と。そこで仰せのままに着けさせた。その夜、蘇民将来の女の子
       を一人のこして、全部ことごとくほろぼしてしまった。そこで仰せら
       れて、『私は速須佐雄(はやすさのを)の神である。後の世に疫病が
       流行ったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免
       れるであろう』といった。」

       とあり、この武塔の神が、疫病神的な性質を持った神であるというこ
       とが知れます。

       で、備後の国というと、今の広島あたりですから、広島の北の海から
       泉州あたりに、武塔天神は、夜這いに来ておられたのかもしれません。

       そして、その女神とは、もしかしたら、この神社の高龗神かも?

       干天が続けば疫病が流行りますし・・・。

       無理やりですね(笑)
       裏に武塔山があるから武塔天神が御祭神だということにされたのか、
       武塔天神に関係があるからこそ、武塔山と呼ばれたのか。
       その因果関係もわかりませんもんね。

       しかし、そこで引っかかってくるのが、菅原道真公の存在です。
       武塔天神は、厄神でもありながら、「復讐の神」でもあります。
       この神様と、菅原道真公の存在は、何か絡みを感じずにはいられませ
       ん。
       菅原道真公を左遷した醍醐天皇の時代は、厄病の流行った時代でもあ
       ります・・・つまり、厄病は菅原道真公の祟りである、と考えられて
       いたわけです。

       また・・・これはまた、ちょっと無理からな話なんですが、両者の繋
       がりは、「出雲」というキーワードでもあります。

       つまり、武塔天神は、自分のことを「速須佐雄である」と名乗ってい
       ます。
       須佐雄・・・素盞鳴命は、出雲に鎮まっている神様ですね。

       菅原道真公は土師氏であるとされています。
       土師氏の祖は、野見宿禰公。
       出雲を出自とします。

       菅原道真公にはいろいろな伝承があります。
       竹生島へ行く船の中で、羽衣天女が人間に嫁ぎ、二人の間に生まれた
       子供こそ菅原道真公である、という伝承がアナウンスされていました。

       神道集「北野天神の事」によれば、菅相公是善の南庭に5〜6歳の容
       貌美麗な供が歩いてゆくので、
      「そなたはどなたか?なぜここに?」
       と尋ねると、
      「相公様を父親にしたいと思います」
       と答えた。
       その子供こそ、菅原道真公である、としています。

       それは、菅原道真公の神格を立派にするための修飾であるのでしょう
       が、そこには、道真公が土師氏の出身であることを隠匿する意味もあ
       るのかも、知れません。

       菅原道真公は、(多分)実在の人物であり、悲劇の秀才なのですが、
       どうやら、いろいろな神を「代弁」させられているような気がしてな
       りません。

       しかし、そこに、ラブロマンスの逸話がほとんど聞かれないのは、一
       体なぜなんでしょうね??

       公は、かなりの子沢山だったようで、愛した女性の数もかなりの数に
       上ったと思うのですが・・・。

       菅公とその娘の親子愛に言及したエピソードは残っています。
       菅公とその叔母の間の慈愛についてのエピソードも残っています。

       が。

       菅公とその恋人・妻との恋愛についてのエピソードは、ほんっとに、
       聞きません。
       でも、子沢山・・・・・・・・。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       なんっっって!!
       謎の多い人物なんでしょうね、菅公って(笑)

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