祭 神:第十二代景行天皇 説 明:大宮神社の説明を転載します。 「大宮神社は、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)をお祀りしています。熊本県北部の温泉地、山鹿の中心部に鎮 座し、この町の氏神様・産土大神として古来より篤い信仰が寄せられています。 ご鎮座の歴史は古く景行天皇の筑紫御巡幸に由来しています。今から約2000年前、景行天皇御一行は、山鹿にお着 きになり、杉山(現社地)に行宮(あんぐう)(仮の御所)を営ませられ、付近の賊を御平定になられたといいます。 その後、行宮の跡地に天皇をお祀りしたことが大宮神社の創建であり、大宮と称するのもこれに由来しています。 毎年8月15・16日に執り行われる例祭「山鹿燈籠祭」では、室町時代より約600年続く「上がり燈籠」をはじめ、た いまつ行列、千人燈籠踊り、花火大会など様々な神事、行事が行われ、安寧への祈り、景行天皇御巡行の伝説、地 域に伝わる伝統文化を連綿と継承しており、毎年多くのご参拝の皆様で境内は賑わいます 「『員弁郡郷土資料』に、「郷社猪名部神社は、本郡に於ける大社にして本郡幣帛料献進之社なり、毎年四月八・九 日を 以て祭典を挙行す、流鏑馬式神事あり、参拝観覧人堵の如し、当社は『延喜式神名帳』に伊勢員弁郡猪名部 神社とあるは此の社にして、三代実録貞観元年(八五九)五月の条にも此の記録あり、(以下略)」とあり、明治 三九年の『神社明細帳』に、「『延喜 式神名帳』に、伊勢国員弁郡猪名部神社とあるは、即ち此社にして三代実 録に、貞観元年(八五九)五月二六日辛巳授伊勢国従五位下員弁大神正五位下、同八年閏三月一三日戊午授伊勢国 正五位下員弁大神従四位下、同一五年九月九日辛未掌侍従五位上春澄朝臣高子奉弊氏神向伊勢国勅賜稲一五百束以 為行旅之資とある。春澄の氏神是なり、春澄高子後洽子と改名あり。典侍は参議従三位春澄朝臣善繩卿の長女なり、 善縄卿は 伊勢国員弁郡の人にて員弁少領猪名部造財麿の男周防大目豊雄の男なり。天長の初年 達官後左京に移 住し、同五年猪奈部造の姓を改め春澄宿祢、後に朝臣を陽われり、されば春澄朝臣の本姓猪奈部造にて員弁郡の土 着なりしなり。此に依て此を見れば員弁大神社頭に接して高塚と呼ぶ陸墓の大なるものあり、其余若干の塚境内に 散在す。是員弁大神を氏神と称し、末裔の春澄氏其祭祀を奉じ来りしものならん。(中略)村邑を大社と云うも此 大神の社あるより唱ふるなるべし」とある。四日市の善戦寺の仏像の胎内から出た藤原実重の供養願文に、「文暦 二年(一二三五)五月二日、大社の大明神へ紙一帳はな米三升まいらす」とあり鎌倉時代の初めすでに近郷に有名 な社であった」 住 所:熊本県山鹿市山鹿196−196 電話番号: ひとこと:山鹿名物の灯籠祭りは、この神社の神事です。 御祭神は景行天皇。熊襲退治に九州へやってきたはいいが、濃い霧に方向を失って彷徨っていたところ、山鹿の人 たちが松明を持って出迎えたのだとか。天皇の行宮跡建てられたのが大宮神社と伝わります。 このエピソードを祝い、毎年松明を掲げる祭りが催行されていましたが、時代が下り、室町時代ごろに、松明から 灯籠に変わったのだそうです。 灯籠祭りより、犬子の瓢箪のほうが気になる。この村に疫病が流行ったとき、子犬が訪れ、その途端に疫病が鎮ま ったんだとかで。犬子の瓢箪の石像が可愛いの。 その横に、小さな鳥居があり、これをくぐって参拝すると、霊験益々あらたかとあります。 無理やろ……と思いましたが余裕でした(笑)