祭 神:大避大明神(秦河勝公) 天照皇大神 春日大神 説 明:ご由緒書きによりますと、 「ご祭神秦河勝公は、中国より渡来した秦氏の子孫で、氏の長として数朝に仕え、 特に聖徳太子に寵任された。 河勝公は、会計制度を起し、外国使臣来朝の際の接待役等多くの功績を残され ている。 太子より仏像を賜わり太秦に広隆寺を建立された事は有名である。 また、神楽を創作制定され、今日では猿楽の祖、あるいは能楽の祖として崇め られている。 河勝公は、皇極三年(644)に、太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ、海 路をたよって此々坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化三 年(647)に八十余歳で薨ぜられた。 河勝公の御霊は神仙化し、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社 の創建と伝えられている。 以来朝野の崇敬をあつめ、治暦四年(1068)に正一位を贈位賜わり、文化 十年(1813)には京都御室御所から幣帛献灯のご寄進を受け、また赤穂藩 主はもとより熊本藩主細川侯も代々江戸参勤の途中熊々坂越浦に船を停め神社 に参詣されたといわれている。 一方近在の村々三十余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されてい る。 坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の信仰をあつめたことが、現在する 船絵馬、石灯筥によってもあきらかである。 更に、河勝公の後裔である秦・川勝・河勝家の人々の崇敬をいただき、近年で は航海安全はもとより、災難ざけ守護神として交通安全、厄除の神社としても 信仰されている。」 とあります。 住 所:兵庫県赤穂市坂越 電話番号:0791−48−8136 ひとこと:この神社には、大郡にある白旗山オフに誘っていただいた時に参拝したのです が、その時、オフメンバーさんから、ちょっとだけ興味深い話しを聞きました。 即ち、この赤穂の地は、兵庫県のほかの地域と少し文化圏が違うということで す。 曰く 「赤穂市に入るには、険しい峠を越えねばならず、文化交流が頻繁ではなかった のかもしれないですね。方言もかなり違うんですよ」 とのこと。 それは地名の「坂越」からも伺えますね(~_~) さて、秦河勝公について語るには、あまりあまりにも、あんまりにもっ!! もう想像を絶するくらい、知識不足でして(^^ゞ 正直、「ごにょごにょごにょ」「むにょむにょむにょ」で場を濁したい。 「うっほほ〜〜い」などとはしゃいでごまかしたい。 んですが、それもまた、寂しい(^^ゞ ただ、この神社のご由緒を拝見して、どうしても比較してしまうのは、 金春禅竹の「明宿集」。 「日本思想大系24」所載の「明宿集」に、こんな一文があります。 「業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空船ニ乗り、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨の国 南波尺師ノ浦に寄ル。蚕人船ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当初近離 ニ憑キ祟リ給シカバ、大キニ荒ル、神ト申ス」 河勝公が、空船に乗って辿り着いたのは、播磨の国、南波尺師の浦。 これがどこか・・・地図見るんですけど、それらしき地名が見つけることがで きませんでした(T_T) と、今、こんな風に書いてますが、多分、今日あたり、これを見た旦那から、 「なに言うてるねん。ここのことやろ」 というチェックが入るやもしれませんので、判明する可能性もなきにしもあら ず(笑) *************** 後 記 旦那からではありませんでしたが、「南波尺師」について、情報を頂きま した〜ヽ(^。^)ノ なんと、南波尺師とは、この神社のある「坂越」のことで、この「坂越」 かつては、「しゃくし」と読んだんだそうです。 いやぁ。 「南波尺師はどこじゃ、南波尺師はどこじゃ〜!」 と明石あたりの地名を探しておりましたが。 南波尺師は意外と身近にあったのですね。 あぁ、幸福の青い鳥は、おうちにいるのですねぇ・・・って、何か違う? *************** ただまぁ、「播磨の国」に辿り着いたのは、間違いなさそうです。 そうすると、この「明宿集」の記述と、この神社は無関係ではなさそうですね。 また、この神社には、「生島」という禁足地があります。 名前の通り「島」なのですが、木一本でも持ち帰れば、祟りがあった、と栞に はあります。 「神社前方坂越湾に浮かぶ周囲二キロ余りの小島は『生島』と称せられ、河勝公 が生きてお着きになられた島であることから名付けられたと伝えられている。 島内西側には河勝公の墓所、神水井戸、東側には浜辺に石鳥居を有し白壁に囲 まれた御旅所と、祭礼船を格納している兵庫県有形民族文化財の船倉が建って いる。 古来生神は神地であって、樹木を伐る事はもちろん島内に入ることも恐れられ、 江戸時代から今日でも幾話かの祟り伝承が郷人に信じられている。」 写真を見る限り、この島は「瓢箪」に似ています。 瓢箪の実は容器になる、という点から見れば、この島は、河勝公が乗った「空 船」を思い出させますね。 河勝公の乗っていた「空船」と、この生島には、何か関係があるのかもしれま せん。 ところで、 「祟り」というキーワードが、ひっかかりますよね。 生島の祟り伝承。 明宿集にある、「憑キ祟リ給シカバ」という言葉。 いったい、なぜ「祟った」のでしょう? ご由緒には、「蘇我入鹿の迫害をさけ」とあります。 蘇我入鹿が迫害したから、「祟った」のでしょうか? どうも「祟る」という言葉に、それより深い何かを感じてしまうのですが。 大体、「祟る」ってなんなのでしょう? 三省堂の「大辞林」で、「祟る」をひいてみますと、 「神仏が罰を与える。亡霊などが恨んでいる人に害を与える」 とされています。 「罰」「害」とありますが、つまり、その言葉に潜んでいるのは、 「祟られる相手に、祟られるだけの理由がある」 ということじゃないでしょうか? まぁ、亡霊が恨んで・・・の場合は、逆恨みの場合もあるんですけどね。 つまり、河勝公が「祟った」としたら、その相手は、蘇我入鹿だったはず。 祟る理由のない相手に祟ってもしょうがないですもんね。 なのに、なぜ、都から離れた播磨の国で祟ったのでしょうか? 相手が違うんじゃないの?といいたくなりませんか? どう考えても、これは、「祟る」という言葉が何か他の言葉に置き換えられて いるんじゃないか、と思えてならない。 例えば、生島に辿り着いた河勝公は、そこで、大掛かりな「入鹿呪詛」を行っ た。 時を同じくして、都では、大化の改新が起こり、入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足 に謀殺。 これは、河勝公の呪詛が利いたんだ・・・ということになれば、 ひゃ〜、こっわ〜・・・と里人が思うのは当然か、と。 もちろん、こんな単純な話しではないでしょうね(^^ゞ ただ、ひとつだけ。 この神社に参拝したとき、まず目についたのは、門に鎮座されている随神でし た。 参道に向かい、門をめがけてやってくるものを睨みつけておられます。 悪い物がこの門を通らないように見張っておられるのですね。 そして、門をくぐるとそこには・・・。 ご本殿に向かい、カッと目を見開いて、何かを睨みつける仁王像があったので した。