祭 神:向山土木毘古王 建御名方命 菊理姫命 説 明:境内案内板から引用します 「祭神向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)は、彦火々出見命の後裔にて、日向の国高屋御殿にて 御誕生せられ日向土本毘古王と号せられた。長じて第二代綏靖天皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任 命され、臣佐々眞武、長田足、丹後辨尼、その他衆多の臣及千人の人夫を引き連れ、甲斐に御入国せら れる(BC五六一年)その頃甲斐の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為、土地の豪族苗敷山 に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山祇右左辨羅などの協力を得て、南方山麓鍬沢禹の瀬の 開削により、水を今の富士川に落し、多くの平土を得、住民安住の地を確保した。其の功績は偉大であ り、甲斐の大開祖として崇められた。(工事着手BC五五四年、三ケ年後完成)。王は第四代懿徳天皇、 四年八月十四日薨去せられ(BC四七二年)大宮山(古宮の地)に奉葬す。後に雄略天皇二年(BC四五八 年)土仏築山に改葬せられる。今の天神山古墳之なり。崇神天皇八年、(BC九十年)二月三日甲斐国大 開祖向山土本毘古王を祀る為、国祭を以って宮殿が造営せられ、佐久大明神と号せられる。(大宮山古 宮の地)。同年三月三日正一位を賜り、正一位佐久大明神となる。神名については、旧記に、佐久大明 神の他に大宮大明神、向山大明神、蹴裂大明神、弓手力雄神、又手力雄神等種々見ゆるが、手力雄神に 因んだものは、王生前に手力雄神を崇敬し、常に心で祈願して居たと言う関係と思われる。延喜式の撰 文に見える神名は佐久の神、蹋霹神、文化十一年(AD一八一五年)の甲斐国誌は、神名手力雄神として あるが、之は誤りである。社殿については年代不詳であるが、当初の古宮の地より社後の山上御殿に遷 座、そして天文十三年領主向山出雲守が社殿を造営、現在の地に遷座せられる(AD一五四五年)。社後 の山上御殿の頃、大宮大明神と号されたもので、世尊寺三位の書と言われた極めて貴品の高い神額が保 存されている。又延喜式に列したのも此頃である。(AD九二七年)本殿は嘉永三年起工、同六年竣工 (AD一七一九年)で改築されたもので、中道町指定の文化財である。延喜式神名帳所載については、大 日本史神祇誌に曰く「太古海水国中に泛濫し佐久神乃ち山巖を蹴り裂き以って之を疏導し始めて平土を 得たり故に之を祀りて蹋霹神と曰ふ。今上向山村佐久の地にあり大宮明神と言う」(原文は漢文)」 住 所:山梨県甲府市下向山町892 電話番号: ひとこと:笛吹市にも同名の神社があります。 この神社は、甲府盆地の灌漑工事をした向山土本毘古王がご祭神。 灌漑の技術をもった人々を祀る神社なのでしょう。