祭 神:八重事代主命 合祀:須佐之男命 倉稲魂命 大己貴命 金山彦命 大山祇命 説 明:境内案内板から、由来を引用します 「例祭:十二月十日 特殊神事 鰶宗旨 探湯神事 社格:明治四年村社昇格 由緒:創祀の年代は明らかでない。 持統天皇三(689)年八月、封田二十九束を奉る。 嘉祥三(850)年六月四日、従五位下を授ける。 文禄年中(1592~96)現地へ遷宮する。 古来一般の尊敬高く、特に授乳の霊験顕著であり、遠近より産婦で母乳の少ない人の参拝者は、 伊賀、大和、山城、近江等より参拝されている。 松尾某は当字の住人で、文禄年間佐々神社を今の地に遷し奉仕したと言う。 その昔、篠ケ嶽にあった頃より、松尾某は信仰が厚かった。松尾某の妻は分娩し、男児を出産 したが、乳が出なく、困ったので、七日間篠ケ嶽に籠り、一心不乱の祈願をし、乳が出たと言 う。誠に神のお告げと崇め敬い、その御神徳を感じたとある。 十二月十日の例祭には、鰶(このしろ)の馴れ鮨は佐々神社の祭礼に御供として膳分焼き物の 引物として、祭禮の宗旨として実施されている神事である」 平成祭データからも引用します。 佐々神社は延喜式内及び国史に記載されているので、他に類似社のない事が断定できる。創立 の年代は不祥である。伊山故事考及び伊賀古代氏族考によれば往古近江国界篠嶽に鎮座してい たのを文録年中に現在の地に遷すとある。 古代より祭祀であったことは疑う余地はない。総国風土記によれば持統天皇3年己己8月封田 29束を奉るとなっているのを見ても、朝野の崇敬が厚かったことを知ることができる。主神 八重事代主命は、我国正史上著名の神で、如何にその御功績の偉大かは記紀2典に明らかであ る。故に、本社は古来一般の尊敬高く特に授乳の霊験顕著であり遠近より産婦で母乳少ない人 の参拝者は伊賀、大和、山城、近江等より参拝されている。 松尾某は当字の住人で文緑年間佐々神社を今の地に遷し奉仕したと言う。その昔、篠ケ嶽にあ った頃より松尾某は信仰が厚かった。。松尾某の妻は分娩し男児を出産したが乳が出なく困っ たので7日間篠ケ嶽へ籠もり一心不乱の祈願をし乳が出たと言う。誠に神のお告げと崇め、敬 いその御神徳を感じたとある」 住 所:三重県伊賀市音羽618 電話番号: ひとこと:う~ん、松尾某が気になる(^^ゞ 式内社ですから、松尾某以前の歴史も長かったと思うのですが、説明がありません。 社名は「篠ケ嶽」から来ているのでしょうね、でもなぜ遷宮したのかもわからない(^^ゞ 伊賀は製鉄と関係の深い場所です。 「ささ」もまた、製鉄に関係が深いと感じます。 だから何かあるのではないかと思うんですが……。 金山彦命が合祀されているのも、何か理由があると思うのだけれどなぁ。 例祭で「このしろ」の馴れ鮨が出てくるのも、謎といえば謎なんです。このしろがとれる海か ら、この神社は結構離れていますから。 んでもって、「このしろ」と言えば、思い出すのが松江城の伝説。 松江城は築城の際、盆踊りの輪にいた美しい娘をさらってきて、無理やり人柱にしたという伝 承があります。 そのため、天守には女の幽霊が棲みつき、「この城は誰にも渡さない」と祟ったとか。 でも、お殿様が住めなきゃ城を築いた意味がない。 なんとか幽霊の怒りを鎮めなければなりません。 さて、どうしたと思います? 海からコノシロを獲ってきて、 「これでなんとか」 と頼み込んだのだそうです。 「この城」を「コノシロ」に替えてくれと。 なんちゅう無茶ブリ(笑) でも、それで幽霊は納得したと言いますから、割とええ加減なもんなんですね(^^ゞ ここ佐々神社でも、何か不穏なことでもあったのでしょうか?