祭 神:誉田別命(応神天皇) 仲哀天皇 神功皇后 説 明:境内案内板から引用します 「由緒書きや本殿棟札によれば、延久三年(一〇七一)後三條天皇の勅宣によって、奥州鎮守府将軍・ 河内守源頼義が、河内国(大阪府羽曳野市)応神天皇陵に鎮座の誉田八幡宮から御祭神を勧請し、創 建されたと伝えられる。 延久四年五月十三日付の源頼義の社領寄進状も現存する。藤原氏によって開かれた篠村の荘園ではあ ったが、何時の頃からか源氏が相伝する所となり、頼義が河内国守となった縁で自身の荘園の当八幡 宮の原初の祠に誉田八幡宮の御分霊を勧請したものであろう。 源頼義から十代末裔の足利尊氏は、元弘三年(一三三三)四月二十九日、当社に戦勝祈願の願文を奉 じて十日間滞在の後、首尾よく六波羅探題を滅ぼして建武中興のきっかけを掴んだ、また、後醍醐天 皇と決別後の建武三年(一三三六)一月三十日、一旦占拠した京都攻防戦で敗れ、二月一日まで当社 で敗残の味方の兵を集めるとともに、社領を寄進、最近を祈願して九州へ逃れた。敗走後一ヶ月で九 州全土を平定、五月の湊川の合戦で決定的な勝利を得て、室町幕府開幕のきっかけを掴んだ。 尊氏にとって二度の重大な岐路で当社に祈願を込めて大願が成就していることから、尊氏自身貞和五 年(一三四九)八月十日に当社にお礼に参拝している。尊氏を始め、歴代将軍家から多くの荘園の寄 進を受け、室町時代を通じて当社は大いに栄え、最盛時には社域は東西両村に及んだ。 後、応仁の乱や明智光秀の丹波平定の戦火によって社殿や車両の多くを損失した。 寛永年間(一六二四~四三)、亀山城主菅沼定芳によって本殿回収がなされ、以来、源姓亀山城主の 直轄神社として、歴代藩主による庇護を受けた。 足利尊氏旗揚げの『願文』や『御判御教書』(寄進状)が伝わる。境内には、玉串に添えて奉納の、 鏑矢を納めた『矢塚』、本営の所在を示す源氏の白旗を掲げた『旗立楊』が残る。 昭和六十一年、境内全域が『足利尊氏旗揚げの地』として、亀岡市の史跡に指定された」 住 所:京都府亀岡市篠町篠八幡裏4 電話番号: ひとこと:南北朝時代、武将たちは、あっちについたりこっちについたり、そりゃもう交錯しまくっていました。 足利尊氏は、源氏の一派。 つまり北朝方でしたが、後醍醐天皇について南朝に。 鎌倉幕府に不満を持つ多くの武将が南朝方に寝返りました。 その後、論功行賞への不満などで、またまた多くの武将が離反。 足利尊氏が挙兵すると、これに従います。 ま~結局、後醍醐天皇は、世直しに失敗したんですね。 時代は振り子のように大きく揺れながら、収束していきます。 女性差別の時代があれば、次は男性差別(?)の時代に突入するのは当然。 女性差別の振れ幅が大きければ大きいほど、男性に対する冷遇も大きくなるわけで。 「セクハラに対して過敏すぎる!」 と感じるなら、それまでが無神経すぎたんですよ。 たばこもそう。 嫌煙が行き過ぎていると感じるなら、これまで喫煙家が、非喫煙者に対して、それだけ大きな迷惑を かけてきたってことでしょう。 揺れを鎮めるには、時間がかかります。 後醍醐天皇は武家の時代から公家の時代に大きく舵を切りすぎ、失敗したわけですが、それはご醍醐 天皇が悪いんじゃないと思う。 そういう時代も必要だったんでしょう。 ただ、普通に考えて、「頑張ったのに報われない」場合、人は気分悪いです。 それもまた、仕方なし。 時代なんですよね~。 でも、なんかしらんけど、尊氏っていい子ぶってる雰囲気があって嫌いなの。 足利の時代を「太平」なんて言っちゃうからいやなのかなぁ(^^ゞ