祭 神:塩土老翁神 配祀神 火火出見尊 豊玉姫尊 説 明:境内案内板を転載します。 「当社創立の年代は詳かではないが、延喜式内社で、既に神威顕著の古社たるを知る。 古伝によれば、上古この志波谷に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出し、これを汲んで製塩し、敢 えて他から塩を求めず、たまたま意富々杼王この地を逍遥し、塩池を見給い『小池の潮汐を製塩せんよりは、何ぞ 外海に塩を求めんや』と問い給う。 一竈丁『吾等は郷代々遠祖塩土翁の遺訓を奉じ、製塩し、穂家に求めず』と答う。 王これを深く感じ、不日里人を助け、塩土翁を鎮祭せられたりと。 即ち之が鹽津神社であり、社名は地名に因み、地名は祭神名に因むと云う。 塩池は中古大地震の為埋没し、潮汐も又出でず。製塩に用いた大釜は、湖底に沈めたりと伝う。この湖岸を大辛と 云い、今も小字名として現存す。 この地は嘗て西浅井郡に属し、当社はその半氷の総社として広く尊崇せられた。社地の背後は鬱蒼とした塩土山の 神林深く、又社前は入江の琵琶湖に面し、式の風光変化に富み、又湖上航行の要港として王朝時代以降、文人武将 の往来しばしばあり、又ふぉう者を崇敬せらる。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや数度当社に参籠して霊 示の随に誉田別神を境内に、瀬織津姫神を境外地に奉祀された。 文和元年、足利高氏の子義詮、俊光厳帝を奉じ、当社に参籠し、幕を張り、供奉の人々を搞ったと云う。 統治の塩津城主、熊谷兵高、熊谷治左衛門尉直久、熊谷直純等、何れも当社を産土神として常に崇敬した。 元亀元年火災に罹り、殿舎悉く烏有に帰し、現在の社殿は元禄初期の作なり。 明治十七年に郷社に列す。 尚当社中古『海北の宮』の別称があった。 例祭 四月十八日 例祭当日氏子青年団奉仕の神輿渡御あり。 御神徳 主神 産業開発 交通安全 配祀神 安産守護 宮司 熊谷 文三 敬書」 滋賀県神社庁の説明は、少し違います。 当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池なが ら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後 又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社 を崇敬せられたのである。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社 境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊 谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。嘉永 年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。明治5年稲荷の神霊を境外 地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。延喜式内未定社。同43年神 饌幣帛料供進神社に指定された。尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった」 住 所:滋賀県長浜市西浅井町塩津浜547 電話番号: ひとこと:延喜式内社の塩津神社の比定社です。 どうして、日本一大きな淡水湖を有し、海なし県でもある滋賀県で、「鹽土翁」なんだろうと不思議でしたが、こ の神社には塩池があったわけですね。 それはわかったけど、そこに塩水が間断なく湧出……ということは、海とつながっていたっていうことでしょうか、 それとも、この土地の下に岩塩かなにかがあるってこと? どちらにしても、ちょっと想像しづらいな、と。 むろん、例はあります。 宮崎県の鹿野田神社には、塩満玉の泉なる井戸があり、塩水が湧き出ているんですが、これは古代の海水が閉じ込め られてのこと。 では、塩津神社の塩池は? 気になりますね。