祭 神:伊邪那美大神 瓊瓊杵尊 天照大神 豐秋津姫命 (配祀)崇徳天皇 源爲朝 説 明:平成祭データから引用します。 「当社は、徳島県美馬郡穴吹町口山字宮の内に鎮座しており、伊弉冉神にに杵尊天照大神豊秋津姫命崇徳天 皇源為朝公をお祀している。 住古は、現地西南の丘に古社があった。周囲を石堤で築き、三ヶ所に門を作り、所謂磐境であろう。保元 の乱の後、源為時は、崇徳上皇をお慕い申して讃岐に滞在していた時、阿波にあらたかなる神があると聞 き、ここに参拝祈願した。その時、為朝は、「この地は狭い故谷川の辺に遷し奉るがよい。」と言ったの で村人は相議って現地に遷宮し崇徳上皇の霊を併せ祀り、武具をも奉納した。その後大阪夏の陣に従軍し た稲田修理はこの神を祈願し軍功を奏したのでその後は稲田家の守護神として為を副祭し、斎田を納め、 累代、神馬、武具、燈籠、絵巻等を奉納し、また社殿の改修築寺を行なった。明治三年(一八七〇)村社 に列し、明治四十三年(一九一〇)に口山村南部十数社を合祀した。戦前、戦中は、武運を祈願する者が 県内外から押し寄せたほど戦の守護神として聞こえた。この氏子には、昔から七十五人の「宮人」という のがあって、いろいろと神社に奉仕したが、中世からは、木像を造って社殿の脇に侍らせ、自分は農事に 従事して、遷宮、お弓、神輿渡御など祭典には斎戒して奉仕した。この歴史ある家は、今尚奉仕し、他家 を入れない。おそらく昔は、神を中心として社地を耕し、一朝事あるときは氏子一心団結したものであろ う。因みに、その家の屋号に「ネギ」「カンヌシ」などが残っている。」 住 所:徳島県美馬市穴吹町口山宮内2 電話番号: ひとこと:奥宮とされるのが磐境神明神社。 そこそこキツイ階段を120段ほど登ったところに、不思議な磐境がありました。 平べったい石が詰まれたもので、美馬市の教育委員会による説明があったので引用しますね。 「美馬市指定史跡 神明神社 指定年月日 1987年(昭和62年3月11日) 南北約7m、東西約22mの範囲を石垣が長方形状に囲郭する異形の祠。南辺には3ヵ所の入口、北辺に5ヵ所 の祠が設けられています。 これについての文献記録での初見は、安永八年(1779)『白人大明神由来書』です。この内容をみると、 白人神社より約一町(109m)ばかり上の段にある奥社とされる神明山という所で、寛保年間(1741~1743) に芝刈りの際に長さ八間余(約15m)、横幅四間余(約7.5m)、東西に二ヵ所の入口、内側は長さ六間(約11m)、 幅一間(約1.8m)の石垣が発見されたとあります。この記録の記述は現状の姿と若干異なるため、少なく とも現在の姿は江戸時代後半以降のものです。成立年代は比較的新しいが、他に類例の見当たらない特殊 な形態の祠であり、貴重な祠です。 美馬市教育委員会」 今の形と違うのではっきりわかるのは、入口が二ヵ所というところ。 現在は三ヵ所の入り口がある。 ということは、後から真ん中に入口を開けたってことですね。 そのときに崩れなかったんだろうか? この磐境がユダヤの祭壇と似てるそうですけど(笑) ……日ユ同祖論は、ユダヤ十二支族のうち、散逸してしまった十支族の一部が日本へやってきたという話。 出エジプトは紀元前13~14世紀と推定されていますから、日本では縄文時代の後期になるのかな? この石造物が紀元前14世紀のもの……に見えるかしら? このあたりは、個人の想像で楽しみたいところです。 私ですか? え~っと……「来てる可能性がないとはいえない」って感じです(笑)