祭 神:志波彦神社=志波彦大神 鹽竃神社=鹽土老翁神 武甕槌神 經津主神 説 明:ご由緒書から引用します 「志波彦神社 当神社は、東山道より陸奥鎮守府を兼ねた多賀城国府(九州太宰府と同等の政庁)に入る交通の要所、陸奥国宮城郡岩切 村(現在、仙台市宮城区岩切)冠川の畔に鎮座され、『延喜式神内名神大社』として朝廷の尊信ことのほか厚いものがあ りました。明治四年(1871)国幣中社に治定され、明治天皇の御思召しにより、明治七年(1874)、鹽竃神社の 別宮本殿に遷祀されました。その後、国費により社殿を御造営することとなり、昭和九年(1934)、現在地に工事を 起こし、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集めて竣工、昭和十三年(1938)、御遷座申し上げました。本殿・回廊・ 幣殿・拝殿いずれも朱黒極彩色漆塗り、本殿は三間社檜皮葺き流造、拝殿は胴葺き入母屋造で、昭和三十八年(1963)、 神門を含め塩竃市の分化財に指定されました。 鹽竃神社 当神社の創建の年代は明らかではありませんが、武甕槌神と経津主神が陸奥国を平定した時に、両神の道案内をした鹽土 老翁神がこの地に留まり、人々に塩づくりを教えたことに始まると伝えられます。 当神社は、平安時代初期に編纂された『弘仁式』の主税帳に、『鹽竃神を祭る料壹萬束』と記され、当時陸奥国より六拾 萬参千束の正税が徴収されていたじだいに、この様な厚い祭祀料をうけていたことが知られ、陸奥国最大の神社として代 々の領主の精神的な支えとなっていたと思われます。特に伊達家の崇敬は厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降明治 時代に至るまで、歴代の藩主は『大神主』として祭事を司るとともに社領・太刀・神馬などを寄進されました。なお、元 禄四年(1691)には正一位を贈られ、明治七年(1874)、国幣中社に列格しました。 現在の社殿は、伊達家四代藩主綱村公が元禄八年(1695)、社殿の造営計画をたて工事に着手され、九年後、五代藩 主吉村公の宝永元年(1704)に竣工しました。別宮・左宮・右宮の三棟の本殿はいずれも三方を勾欄のある縁をまわ し、装飾をおさえた木造素木三間社檜皮葺き流造、一方、別宮および左右宮の二棟の拝殿は古風で華やかな様式の朱漆塗 銅板葺入母屋造と好対照なたたずまいを見せております。さらに、南向きの左宮と右宮、松島湾を背にした西向きの別宮 の三本殿と二拝殿の社殿に加え、門(唐門)・廻廊・随身門(楼門)が整然とならぶ構成は、江戸中期の神社建築として は類例がなく、その歴史的価値が認められ、平成十四年(2002)に本殿以下十四棟の建物と石鳥居一基が国の重要文 化財に指定されました。なお、宝永期以降二十年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っております」 住 所:宮城県塩竃市一森山1-1 電話番号:022-367-1611 ひとこと:塩竃駅からの参道は、長い階段が続いてめげそうになりましたが、帰りに松島海岸へ行こうと本塩竃駅に向かったら、七 曲がりの道にまためげそうになりました(笑) 塩土翁は、目無籠の船を編んだことから、ポリネシア系の神様ではないかとも言われていますよね。 つまり、海洋民族。 松島海岸から眺める景色は、伊勢のリアス式海岸とよく似ていて、もし、鬼ケ城あたりに住んでいた人たちが、なんらか の事情で松島に来たら、郷愁を感じたんじゃないかななどと思いました。 海って、いいよね。