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曾枳能夜神社

sokinoya




  祭  神:伎比佐加美高日子命 
  説  明:境内案内板を転記します。
      「当社は延喜式内社で、出雲風土記に『神名火山(中略)曽枳能夜社に坐す伎
       比佐加美高日子命社、即ちこの山の嶺に在り。故れ神名火山と云ふ』と記さ
       れてあります。
       御祭神はこの地方(キヒサノ里)一帯を護ります首長神であり、出雲大神の
       祭り主でありました。
       古事記垂仁天皇の条に見られます『出雲国造の祖・伎比佐都美』は当社の御
       祭神であり、同条『石くまの曽の宮』とは当社であると考えられています。
       明治五年二月、郷社に列せられています。」
  住  所:島根県出雲市斐川町神氷823
  電話番号:
  ひとこと:垂仁天皇が愛した佐保姫は、謀反人の妹として炎の中で亡くなります。
       そして彼女が遺した一人子が本牟知和気。
       しかしその子は、大人になっても泣くばかりで言葉をしゃべりませんでした。
       
       ある時、白鳥を見て、「あれは何か?」と声を出したことから、天皇はそれ
       を取りにいかせます。
       捕まったのが今の鳥取県。
       
       日本書紀ではそれにより御子は言葉を発するようになったとしています。
       
       しかし古事記では、それだけでは駄目だったというのです。
      「物を言おうとお思いになるが、思いどうりに言われることはありませんでし
       た」
       と。
       
       そこで夢に占うと、出雲の大神の祟りであることがわかります。
       
       そこで、本牟知和気は出雲へ旅立つのです。
       
       そのシーンを引用しましょう。
      「かくて出雲の国においでになって、出雲の大神を拝み終わってかえり上って
       おいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、仮の御殿を造ってお迎え
       しました。ここに出雲の臣の祖先の岐比佐都美という者が、青葉の作り物を
       飾り立ててその河下にも立てて御食物をたてまつろうとした時に、その御子
       が仰せられるには、『この河の下に青が山の姿をしているのは、山と見れば
       山ではないようだ。これは出雲の石くまの曽の宮にお鎮まりになっている葦
       原色許男の大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか』と仰せられました。
       そこでお伴に遣わされた王たちが聞いて歓び、見て喜んで、巫女を檳榔の長
       穂の宮に御案内して、急使を奉って天皇に奏上いたしました。
       そこでその御子が一夜肥長比売と結婚なさいました。その時に嬢子を伺いて
       御覧になると大蛇でした。そこで見ておそれてにげました。ここにその肥長
       比売は心憂く思って、海上を光らして船に乗って追って来るのでいよいよお
       それられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上っておいでになりまし
       た」
       
       肥長比売の正体が蛇だったというのは、見逃せないポイントですね。
       そして何より、本牟知和気が出雲の大神を拝み終わった後の記述。
       河の中に仮殿を造り、何かを迎えたとありますよね。
       肥長比売が蛇なのなら、彼女は肥の河の化身でしょう。
       とすれば、河の中の仮殿の中にいたのは?彼女の「つま(夫)」となるべき
       人。
       それが、本牟知和気なら?
       
       折口信夫の『水の女』にもあるように、通常、川辺の小屋で神迎えをするの
       は、聖なる棚機女。
       その役目を男性が果たしたというのなら、ものすごく面白くありませんか?
       そしてそれにより、本牟知和気は言葉を得た。
       
       出雲の大国主と、三輪の大物主は同じ神だとされます。
       そして、三輪の大物主の正体は蛇であるとも、日本書紀の崇神天皇紀に記さ
       れています。
       
       でも、出雲にあったときの大国主命と蛇の関連を思わせるものはないように
       思います。そもそも鼠に命を助けてもらった大国主命の本性が蛇だというの
       は考えづらくありません?
       
       本来、大国主命が蛇なのではなく、大国主命を祭っていた人々が蛇に関連の
       深い人々だったのでは?
       そう考える方が自然な気がします。
       
       また、もう一つ。
       
       大人になっても泣き叫ぶばかりで満足にしゃべらなかったとされる神は数人
       存在します。
       
       まずは本牟知和気(記紀)。
       そして、素戔嗚尊(古事記)。
       火明命(播磨国風土記)
       阿遅須枳高日子(出雲国風土記)
       
       火明命は言葉が話せなかったとは書いてありませんが、強情で行状も非常に
       たけだけしかった、と、「大人になれない」男であることが書かれています。
       そしてその父は、「大汝(おおなむち)」。
       大国主命の別名ともされます。
       
       阿遅須枳高日子もまた、大国主の息子。
       
       素戔嗚尊は出雲の王にして、大国主命とも血縁関係にあるとされます。
       
       そして本牟知和気は、出雲に来て、言葉を話すことができるようになる。
       
       出雲には、「大人になれない男」を「大人の男」にしてくれる何かがあった
       のかもしれません。
       そしてそれが、蛇を本性とする肥長比売を筆頭にした女性たち……。
       とかいうのはうがち過ぎですかね(^^ゞ
       
       なんにせよ、この符合に何かあるのは、間違いないと思います。

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