祭 神:建速須佐之男命(右) 武乳速之命(中) 櫛稲田之姫命(左) 説 明:ご由緒書から引用します 「平安時代初期に編纂された『延喜式神名帳』という全国の神社総覧によりますと、当神社は、月次祭 や新嘗祭に朝廷から幣帛(へいはく=お供え物の布類)を奉られて大社という格式を認められた神社 として記されています。従って、延喜年間(901~923)以前すでに存在していたことは確実で す。 一説に、地元の古老の口伝として、祭神のうち、武乳速之命(たけちはやのみこと)の実の名は、富 雄川の中流域一帯を治めていた首長である長髄彦とされ、鎮座の起源はおそらく古墳時代まで遡るこ とができます。その後は、この地域は古代豪族の小野氏の子孫が治め、農業の他に林業を業とする杣 人の住む集落が点在していました。 なお、当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつがらす)の地名の起源となったとされる、三穴 の凹みのある大石が展示されています。これは古代の唐臼の残片と伝えられており、一つの大石に掘 りこまれた『三つからうす』が後に『みつからす』へと転訛したとされています」 住 所:奈良県奈良市三碓3丁目5‐8 電話番号: ひとこと:山本博の『古代の製鉄』では、三碓は、日本書紀天智天皇九年条にある「是歳、水碓を造りて冶鉄す」 にある水碓が転訛したものではないかと推論されていました。 でも、社務所で聞いたところ、そばで鉄滓が採れるといった話は聞かないとか。 武乳速之命は、添県主の祖先神とのこと。 その別名が、長髄彦というのは、なかなか興味深いところです。 『続日本紀』によれば、添県主の始祖は石前(いわさき)という人物とのこと。 天平神護元年二月三日、大和国添下郡の人、左大舎人、大初位下、県主石前が添県主の姓を賜ったと のことですから、神武天皇との戦に負けて殺された長髄彦の子孫が、8世紀まで生き延びていたこと になります。 本当に長髄彦は死んだんでしょうかね?