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杉原神社

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  祭  神:辟田彦 辟田姫
  説  明:公式サイトの由緒を転載します。
      「はっきりとした発祥年代はわかりませんが、少なくとも千五百年以上(おそらく二千年近く)の歴史があります。
       その昔、一本の杉の大木に降り立たれた神様がこの地に流行っていた疫病をお鎮めになりました。人々はこの神様
       に感謝し、社殿をお造りしてお祀りするようになりました。時が流れ(といってもこの時点で一千三百年以上昔で
       す)、未曾有の豪雨がこの地を襲いました。しかし、一組の夫婦(辟田彦・辟田姫)の命がけの努力により、田畑
       を守り抜くことができました。人々は彼らを讃え、疫病をお鎮めになった神様と併せてお祀りするようになりまし
       た。これが杉原神社としての始まりです。
       現在はさらに水分大神(水神様)、天神様、八幡様、建御名方神(お諏訪様)、天照大御神様、豊受大御神様を併
       せてお祀りしています。ここ黒田の氏神様としてだけでなく、病気平癒・夫婦円満を始め、学業成就・開運招福な
       ど幅広い御利益のある神様として信仰されています。」
       
       ご由緒書を転載します。
      「社伝によれば、10代崇神天皇即位10 年(紀元前88年)に大彦命が勅命を受け、この地にとどまって農業の指導をな
       さったとき、この地に疫病(天然痘) が流行し、多くの住民が死亡した。大彦命は大層心をお痛めになって、杉の
       大木に神様をお招きして色々な供え物をしてお参りされたところ、たちどころに疫病が治まった。住民たちは喜び、
       その杉の大木の下に祠を建てて神像を刻んで祀り、「辟田の社」と呼ぶようになった。時代は下り、聖武天皇天平
       2年(730年)3月1日、「越ノ国社」と勅定され、神名を 「木祖神(久々能智神)」と定められたという。
       また別の古伝書によれば、文武天皇大宝2年(702年)6月創立といわれる。杉原野の開祖である「杉原彦命・木祖神」
       を郷長小右衛門という人物が、杉原野守護神として邸内に奉斎していたが、この地方に疫病が流行するようなった
       ので、住民が小右衛門に願い出て祠を建立し、皆が参拝するようになった。名づけて「郷の明神」と称された。清
       和天皇貞観5年(863年)8月15日「越中国正六位上、杉原神二従五位下ヲ授ケラレタ」と伝わる。
       天文21年(1552年)、越後の上杉謙信が井田城攻略のとき、井田城主斎藤氏が天神林において防戦の際、社殿が戦火
       に罹り消失したが、再建されて岩住村産土神杉原大明神と称されたようである。天和2年(1682年)3月2日、この岩
       住村が黒田・寺家・浜ノ子の三ヶ村に分村したので、産土社の所在地を黒田村に定めて、 社領一、534歩をもって
       別当長久寺が奉仕するようになった。 天文5年(1740年) 出火により再び社殿を焼失したので、文化5年 (1808年)
       再建されて、従来末社であった、八幡宮・水神社・諏訪社・天満宮の4社を合祀した、とある。
       現在の本殿は天保14年(1843年)3月16日黒田・寺家・浜ノ子の三ヶ村で56貫740文(約65万円)で修復されたことが記
       録されている。明治40年(1907年)神饌幣帛共進神社に指定された。 また、令和3年(2021年)10月23日、合祀された
       水神社を境内末社・水分神社として分祀、現在に至る。また、創建以降移転の記録はない。他にも富山市婦中町田
       屋と浜ノ子に同名の神社が存在するが、最も離れている黒田と田屋の社でも3kmほどの距離である」
  住  所:富山県富山市八尾町黒田3166‐4868 杉原
  電話番号:
  ひとこと:辟田彦、辟田姫はさくたひこのみこと、さくたひめのみこととお読みするようで、多分この地における始祖神なの
       でしょうね。
       
       ところで、ご由緒に
      「10代崇神天皇即位10 年(紀元前88年)に(中略)この地に疫病(天然痘) が流行し、」
       とあります。
       島国日本は天然痘が伝わるのがおそく、最初に流行したのは奈良時代というのが通説なので、「この地は違う説が
       伝わっているのか?とワクワクしたのですが、どうやら宮司さんが「疫病流行といえば天然痘」と思い込んでらっ
       しゃるだけのようでした(^^ゞ
       
       社務所でこの件について質問したら、宮司さんが出てきてくださって、
      「昔の疫病の流行といえば天然痘です」
       と断言されたので、
      「一般的には、天然痘の渡来は奈良時代とされてますよね?」
       と問うたのですが、
      「昔の疫病は天然痘です。たとえば平安京で行われた追儺の鬼も、天然痘のことですから」
       と、全然嚙み合わず(^^ゞ
       
       追儺の鬼やらいといえば方相氏なわけですが、方相氏自体は弥生時代の土器にも描かれているんですよ。いや、正
       確には、「方相氏だとされているものが土器に描かれている」かな?
       
       中国における方相氏は「悪鬼を追い払う役」で、「悪鬼」の定義は茫洋。
       その方相氏が日本に渡来して、何を追い払っていたのだろう?
       その答えは出ていません。
       
       平安時代において、方相氏が活躍する場は追儺だけではありませんでした。
       貴人の葬列において露払いの役目も果たしていたので、土器に描かれている方相氏もそれかな……ということは、
       方相氏が描かれた土器は、祭礼(葬儀)用のものかなと考えていました。
       
       だから、「天然痘が弥生時代にもあった」という話があるなら、弥生時代から、方相氏と天然痘を絡める筋もある
       のかもしれず、面白いなと思ったんですけどね(^^ゞ
       
       仕方なく、「だから私が聞きたいのは入ってきた年代のことなんですっ!!!」のニュアンスを籠めて、
      「平安時代は奈良時代の後ですから、そりゃ天然痘も何度も流行してますけど……」
       と聞いたら、やっと
      「天然痘がいつ入ったかなんて誰にもわからないことでね。流行病としか伝わっておらず、流行病といえば天然痘とい
       うことで、天然痘としています」
       と説明があり、
      「天然痘と伝わっていたわけじゃない」
       とわかりました。
       
       まぁ確かに、奈良時代のエピデミック以前に天然痘が入ってる可能性はあるでしょうけど、だからといって、しっか
       りした知識もなく、調べることもせず、「昔の流行病といえば天然痘」と断言されたら、ちょっと困るなぁぁ……。
       
       なんで、流行病といえば天然痘だってことになるんだろう(^^ゞ?
       治療法が確立されておらず、治療薬もさほどなかった時代、さかざまなウイルスが「流行病」の原因になりえたと考
       えるほうが自然じゃない???
       どういう古代観なんすかね(^^ゞ
       
       この神社について調べてみたら、どうやら、スピリチュアルな神社として人気のようで……。
       確かに、私の先客の女性たちが、「パワーが」「運気が」と話しておられましたから、さもありなん。
       そっちがわに振っちゃってる神社なのかもですね。
       
       歴史は古い神社なんだけどなぁ……。

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