祭 神:天目一箇神 説 明:境内案内板から引用します 「本社、薄野神社は、天目一箇神を祭り、一般に一ツ目神社と称する。 肥後国誌に記載されている社殿裏の卋止命の池の水生植物群落、春の桜、秋の紅葉など、県北の名勝と して広く知られている。 今から約千五百年の昔、継体天皇の四年(510)十一月、高天山の神・主若山連(むらじ)の後裔吉 田氏が斎き祀ったといい、県内屈指の古社である。 現在の神殿は焼失後、元禄六年(1693)二月建立したが、再び炎上、安永八年(1779)再建、 拝殿は天明三年(1783)十月、楼門は寛延四年(1751)の建立である。 もと旧三玉村の村社であったが、昭和二十一年六月、宗教法人となった。境内神社として八坂神社 (祭神素盞嗚命)、熊野座神社(伊弉冊命)、木幡神社(天忍穂耳命)、稲荷神社(倉稲魂命)、天満宮 (菅原道真)を祀る。 昭和二十七年、新法人切り替えによって、久原の本未だ、永田、本霊仙に奉祀する菅原神社三社および 催合の天神社を飛び地境内神社とした。 祭神はいづれも菅原道真公である。 伝承によると、往古旧三玉村蒲生の不動岩と、旧三岳村彦岳権現が首引きをした時、この池にあってわ が子の首引きを案じていた母神の目に首引の大綱の端が当たり、一眼をうしなわれたので、その母神を 祀って、一ツ目神社と称するようになったという。 また民俗学上では、天目一箇神は古代における鍛冶集団の祀るところであるともいう。 本社を有名にしたのは、寛政のころ(十八世紀)伊勢松坂の本居宣長の門に学び、肥後の国に初めて国 学を導入した社司帆足長秋である。 彼が書写した『古事記伝』は、高く評価され、県重要文化財に指定されている。また彼が描いた神社絵 図も今に遺り、荘厳な本社の往時を語っている。 平成三年九月の第十九号地風のため拝殿は倒壊し、神殿、楼門、境内社等も他愛の被害を受けたので、 氏子相謀り、拝殿並びに篭堂を新築し、神殿、楼門、境内社を修復し、平成五年四月三日、盛大な落成 式を挙行した」 住 所:熊本県山鹿市薄野2187 電話番号: ひとこと:首引きてなんでしょうね? 母親が心配するぐらいですから、命をかける……決闘めいた儀式だったのではないかと想像もできます が、大綱を使うということですから、やはり首に綱をかけて引きあうんでしょうか? それで母神の片目が失われたというのは、何を意味するのでしょうね? 古来、片目をつぶすのは、何か特別な力を得るためだと考えられています。 そしてもう一つは「目印」。 たとえば、一年神主は、片目をつぶすことが多かったようです。 一年神主とは、一年間神主を務めることです……ではなく、一年神主となってから、一年間は「神」とし て過ごす役目です。 多くの場合、逃げないように閉じ込められ、食事などは何不自由なく世話されます。 そして一年が終わると、生贄として殺されるんですね。 もし「一ツ目神」が、子の代わりに一年神主となったのならこういう由緒が作られるのかもしれません。 鍛冶集団が一ツ目なのは、強烈な炎で目がつぶれるからと言われますよね。 そう考えれば、この神社のご祭神は、タタラ神とは関係ないのかも……しれません。