祭 神:手力男之命 説 明:境内の案内板を転載します。 「当社は明治七年戸隠神社と改称される以前は九頭宮と呼ばれ、平安後期(938)の美濃国神名帳に郡 上郡上郡七社のうち〇一社『正六位上国津明神』と記載されている。 地頭橘頼綱が国土安泰と戦勝祈願のため、文永八(1271)年から建治元年(1275)までの五か年に 亘り、大般若経六百巻(県重文)を写経奉納した。この大般若経の奥書にある『九頭大明神御宝前』 という記録が、当時既に九頭宮がここに存在していた事を意味するものである。 この大般若経を永禄十二年(1569)、三木自綱が郡上へ侵入した折に、戦利品として河尻新之丞利 廣が飛騨に持ち去り、千光寺(大野郡丹生川村)へ寄進した。現在当社には残簡一部が存在する。 文禄三年(1594)に、雷火により本殿を始め、その他が消失した。しかし、再び郡上藩主になった 遠藤慶隆によって、慶長十二年(1607)社殿等が債権され、郡上五保の総社として代々篤く崇敬さ れてきた。 郷中盛衰記 天保十一年(1840)には、和良街道筋の大社として、その威容と賑わいぶりが記され ている。 昭和三十五年(1960)銀弊社に指定された。 岐阜県神社庁の説明を転載します。 「その創建年代不詳。 天の岩戸の磐戸が真っ二つに割れてその片割れが、戸隠神社に飛んできたとい う「重ね岩」(社殿の後に、神岩、天岩戸という大きな岩があり、指一本で動かすことのできる、実 に不思議な岩があります。(この岩は、古事記に出てくる天照大神の「天の岩屋戸こもり」に由来す る伝説)史料によると、平安期、天慶元年(938)美濃の国神名帳によれば、郡上7社の内の一社(正利六 位上国津明神)と記載されている。信濃の国戸隠神社より勧請され、明治7年(1874)戸隠神社と改称さ れる。 地頭橘頼綱が、国土安泰と戦勝祈念のため、文永8年(1171)から建治元年(1275)までの5ケ年に亘り 大般若経の奥書にある「九頭大明神御宝前」という記録が、当時既に九頭龍宮ここに存在している事 を意味するものである。この大般若経を永禄12年(1569)三木自綱が郡上に進入した折に、戦利品とし て河尻新之丞利廣が飛騨に持ち去り、千光寺(大野郡丹生川村)へ寄進した。現在当社には残簡一部が 存在する。文禄3年(1594)に雷火により本殿をはじめ、その他が焼失した。しかし、再び郡上藩主に なった遠藤慶隆によって、慶長12年(1607)社殿等再建され、郡上五保の惣社として代々厚く崇敬され て来た。郷中盛衰記天保11年(1840)には和良街道筋の大社として、その偉容と賑わいぶりが記されて いる。 『大神楽』 大幣帛を持った口上役の大音声によって、大神楽起こし笛が始まり、大神楽・大 獅子・岡崎・こすずみの4曲神楽奉納。舞子は、大太鼓打ち2名、ささらすり1名の子供3人で定め られた法式によって舞う。楽人は笛、小鼓、小太鼓、があり、衣装に裃をつけ、頭には゛とさか゛を かぶる。曲に合わせ大獅子が宮路地区雄の麒麟獅子、上沢地区が雌の麒麟獅子が舞う。『山車』 上沢 の山車は参道を登る時゛ちゃんとこ゛猿田彦命が踊り、境内広場では、からくり人形「那須野与一の 的」を演じる。宮路地区の山車は参道を登る時゛おかめ゛天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞い、 境内広場では「とんぼかえし」=西洋人の鉄棒演技=を演じる。 「馬乗り」「神輿」「伊勢神楽舞」等の奉納もご奉仕いたします。 文化財等 郡上市指定棟札等20枚・大般若経残簡・棟飾り一式・軍配一式・ 振板獅子頭二体・山犬狛一対・金 泥馬酌一対・本殿金銅製御幣・ 「九頭大明神」篇額・十二支浮彫・鰐口・御神輿一式・舞台二棟。 各所古跡 郡上市指定「重ね岩」 岐阜県天然記念 物 「一本杉」「社叢」」 住 所:岐阜県郡上市和良町宮地上沢字1・538番地の1 電話番号: ひとこと:通称を九頭の宮。 信濃戸隠神社は、奥社・中社・宝光社・九頭竜神社・火之御子社で構成されていますが、そのうち九 頭竜神社だけが勘定されたということでしょうか。 でも、当社御祭神の手力雄命は、奥社の御祭神。 いつの時代にか変更があったのか、それとも。 重ね岩は、天の岩戸の片割れということですから、信濃戸隠神社の伝承とも重なりますし、さて。